いたみの尺度
きっとわたしは、ずっと自分のことを呪っていたんだと思った。
大事なものを損なって、生きていることは、大事だと思っていたはずのものが、そうではなかったという裏付けになってしまうから。
ずっとずっと、許していなかったんだと思った。わたしのヒリついた願い事を、叶えてくれなかったわたしのこと。
言葉が通じることが、奇跡みたいだと思う。
わたしが話していることが、過小も過大もなく、伝わっていると、わたしが思えること。
悲壮なストーリーをエンタメとして消費するという、長い長い、自傷行為。どうせ生きてるくせにと、わたしはずっと思っていた。どうせ、稀有な体験ではない。有り触れたはなし。わたしの気持ちの尺度は誰にも伝わらない。
「そんなことで!」と、言われるのは怖かった。自分を切りつけて悲壮感に塗れなければ、自死を選んで圧倒的な絶望を見せつけなければ、わたしはきっと許してもらえない。
だれに。
友達に、「あなたはあなたの器で無ければ自殺しています!」と言われたことがある。安心した。わたしはおかしくないって思えた。こんなに辛いのにまだ生きてても、辛いことの反証にはならない。痛いことを認めてもらえて、痛いことを許された気がした。
ずっと、自信がなかった。確かに、辛くて、痛いけれど、そのスケールは実はすごく小さくて、ただの怠惰により、わたしは弱音や文句を吐いて、ただのわがままで、だから「いたい」と声に出すことを、咎められると思っていた。「いたい」と声に出すことを、許してもらえないと思っていた。「いたかった」と、伝えたい相手に、冷ややかな目をされるかもしれないという可能性は、とてもこわかった。
生きているのに、大丈夫じゃないとは、どういうことなのかわからなかった。
どんな日でも、わたしはご飯を食べて、お風呂に入って、眠って、次の日には笑って誰かと話せた。それが出来ることは、大丈夫以外のなんなのかは分からなかった。これさえ大丈夫じゃないのなら、わたしが"大丈夫"である時間は、いったいいつなのか、分からなかった。
ああ、だって、いつだってこんなに体を、表情を、感情を動かせる。
性欲と愛情を切り離せないアホは多い。
ただ熱に浮かれた言葉で、わたしの気持ちを受け止めた気になる人間はたくさんいた。それが分かってしまうから、その気持ちがわかってしまうから、わたしは誰になにを伝えることは無い。分からないんだ、病熱に浮かされてる自覚さえ無いなら。無理だよ。一過性の感情を認知出来ないなら。祈れるわけもない。
許しを乞うには罪の自覚が無ければ。
わたしのことをまっすぐにみて、「まだ死んでなくて良かった」という人がいる。
わたしが死にそうな人であると、思いながらはなしをきいてくれる人がいる。
死にそうな人の死にたくなる話を、まっすぐ目を見ながらきいてくれるひとがいる。それでも歪まず、手折られないひとがいる。目を逸らさないで、しずかに、ただわたしのはなしをそのままきいているひとがいる。笑いもせず、同調するでもなく、ただ慈しむ目線だけがある。そしてそれが傍からたじろぐことさえも無い。
それがどれだけ、途方のないものであるか。
わたしはわたしの孤独の輪郭を知る。
わたしがいちばん、「こんなことで泣き喚くな」と、自分を呪っていた。
たて、あるけと、ずっと。
ずっと、いたかった。つらかった。わたしの奥底を見せたらみんな笑えないから見せれなかった。人にあるバイアスが怖かった。わたしの中で繋がっていることを、違う線で結ばれることにはまだ耐えられなかった。
わたしはわたしのやり方でしか頑張れなかった。それを悪手だと言われることはこわかった。わたしの昔話を、今に投影して、いまのわたしを見てもらえなくなることも。なにもかもがこわかった。
たくさんの否定の中に、いたんだなあと思う。
その意図さえ無自覚な拒絶を、知ってしまうような人生だったなあと思う。
バカでかわいいのにたまにアンニュイで儚いわたしは人気だった。アラサーなのでそろそろ価値が揺らぐが。
でも、べつに、それは、わたしじゃないよ!
でも、わたしって、そもそも、なんだろう?
わたしにも見えない輪郭をなぞる意思。
言葉に意味が込められているということ。その言葉に肉があるということ。言葉に重みがあるということ。数種類の発音の組み合わせに、息を呑むほどの深度があること。
世界に意味があることを思い出して、それがすごく重たくて、だけどそれでも、まあいっかって、思えるような明日。