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訪問記「佐竹氏屋敷跡/大寶寺」@鎌倉大町
つい先日まで春の陽気を浴びていた気がするのですが、いわゆる〝寒の戻り〟という奴でしょうか……寒い!
ということで、そんな暖かいうちに鎌倉へと旅行してまいりましたので、さっそく訪問記を記していきましょう。
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今回私が訪れましたのは、こちら。
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日蓮宗の寺院「大寶寺」です。
案内板に記載されている通り、昔この一帯は新羅三郎義光が居を構えていた土地でした。新羅三郎義光の兄は八幡太郎こと源義家。「後三年の役」のあと、この地に居を構え、その後子孫である佐竹氏の屋敷となったそうです。
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新羅三郎義光については、私の前回の記事も併せて読まれると分かりやすいかもしれません。
新羅三郎義光は武田氏・佐竹氏の祖です。源義家の父である源頼義が平直方から鎌倉の地を譲り受けて以来、源氏の都として鎌倉は栄えてきました。
今となっては鎌倉のメインストリートといえば若宮大路周辺ですが、それは源頼朝が鎌倉に入ってからのこと。京の都に倣って鎌倉の都市開発を進めていくわけですが、それ以前といえば、鎌倉は古東海道の通過点でしかありませんでした。
その中でも、今回の地名にもある大町大路を含む【片瀬~腰越~極楽寺坂~甘縄~大町~名越~小坪~沼間~走水~安房(海路)】の行路こそかつての古東海道の一部だったのでした。義光の時代には、彼が住んでいたこの地こそ鎌倉の顔だったのですね。
ちなみに、今回は未訪問となりましたが、付近には義光が「後三年の役」へ向かう際、周囲で疫病が蔓延していたことから疫病退散のため京の八坂神社から勧請したと伝わる「八雲神社」があります。
さて、碑文にある佐竹秀義ですが、佐竹義政の弟でした。彼は金砂城の戦いで頼朝率いる源氏軍に敗れた後、奥州に逃れたとのこと。その後頼朝による奥州合戦では頼朝方として参陣し、その際頼朝の白旗と区別するべく旗面に扇の図柄を入れ込んだのが佐竹氏の家紋の始まりとされているみたいです。
合戦後、佐竹秀義は鎌倉に移り住み、御家人として過ごしたようです。その際に居館の場として頼朝から与えられたのが、縁の深いこの大町の地だったということですね。
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元々この地には新羅三郎義光が信仰した稲荷大明神を祀る霊社がありましたが、のちに祇園天王社(現在の八雲神社)に合祀。しかし、また日證上人が霊夢によって稲荷明神社を境内に再勧請し、今に至っています。
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ここで流れを整理すると、
11世紀ごろ :新羅三郎義光、入地
1087(寛治 元)年:「後三年の役」終戦
⇩? 年:多福稲荷を勧請
1189(文治 5)年:奥州合戦
⇩? 年:佐竹秀義、御家人に列す。当地に居住
1333(元弘 3)年:佐竹貞義、足利高氏の調略により後醍醐方に転ず
1399(応永 6)年:佐竹義盛出家、当地に多福寺建立
1416(応永23)年:上杉禅秀の乱、佐竹義人は足利持氏方として参戦
1438(永享10)年:永享の乱、義人は持氏方として参じるも敗戦
⇩? 年:一時廃寺、祇園天王社へ合祀
1444(文安 元)年:日蓮宗僧日出上人により多福山大寶寺として再興
1499(明応 8)年:日證上人、霊夢を受け稲荷明神社を再勧請
以上の通りになります。佐竹氏は鎌倉時代を通して御家人の立場にありましたが、末期には足利高氏と共に京へ出陣しますが高氏の誘いを受けて討幕方に寝返り、討幕後は鎌倉に戻り鎌倉公方の下で政治に参画していたようです。
時は流れ、佐竹義盛には子がなく、早々と出家し多福寺殿と号してました。後を継いだのは関東管領:上杉憲定(山内上杉家)の子、義憲でした。義憲はその後義人と名を変えますが、義人の佐竹氏相続に反発した庶流の山入氏(佐竹与義)と対立を深めていきます。
義人は鎌倉公方:足利持氏の後援を受けて佐竹氏の家督を保ちますが、その後の情勢によって苦しい立場にあり続けます。恐らくですが、佐竹氏の境遇がそのまま当地の命運を反映していたのでしょう。時期は不明ながらも、一時期廃寺となっていることからも、上杉禅秀の乱~永享の乱にかけて当地一帯が戦乱によって荒廃していったことが窺えます。その影響を受けてか、元々当地にあった多福明神は近くの祇園天王社へ合祀されました。その後、日蓮宗の高僧:日出上人によって再興され、かつての寺名を山号にして「多福山大寶寺」となりました。
室町時代の日蓮宗の僧。一乗房と号す。身延山久遠寺9世の日学の教化で天台宗から改宗。伊豆国三島に本覚寺を開山、また鎌倉市の本覚寺を鎌倉公方足利持氏の寄進で創建した。著書に「永享問答記」等。 身延山久遠寺中興の日朝の師。
幾度の戦乱を経て、鎌倉はすっかり衰退してしまいました。「享徳の乱」が起きてからは、鎌倉公方:足利成氏が関東各地を転々とするのに合わせて戦火も飛び火し、かつては「関東八屋形」と呼ばれた名だたる大名たちも領国に戻って断続的な戦に明け暮れました。佐竹氏も、本拠地である常陸へ活動の場を移し、すっかり鎌倉との繋がりはなくなっていったのでしょう。
鎌倉公方の鎌倉追放と共に、武家の都:鎌倉は終焉を迎えたのでした。
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石塔「大震災火災横死者之霊」
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実は境内にある宝篋印塔の一つが新羅三郎義光のものであるとあったのですが、どれを指すのか分かりませんでした。
また、義光のお墓が境内奥にあったとのことですが、こちらも今回は未訪問となりました。
次回訪ねる際には御首題と一緒にお参りさせていただきたいと思います。
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この写真は境内にあった冒頭の多福稲荷社の奥にある高地にあった祠群を写したものですが、もしかすると往古の明神社の名残なのかもしれませんね。
……
ということで今回は、鎌倉は大町にある大寶寺を訪れました。『史碑探訪録』初の寺院への訪問でしたが、その初回が歴史の大結晶たる鎌倉の地で迎えることができて光栄です。
また、図らずも前回のスポットと関連のある人物ゆかりの地ということで、非常にまとめがいがありましたし、私自身も意義深い勉強になりました。
鎌倉の地は歩くたびに発見と出会いのある素敵な場所で、一歩ごとの景色がまるで違うような、そんな不思議かつ魅力あふれる土地です。今回はここを始め北鎌倉~極楽寺、そして名越にいたるまで様々な場所を散策したのですが、その中でも大町大路の日蓮ゆかりの地の多さに驚きました。日蓮を信仰する人々にとって、この土地・道路はまるで「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のようだと思いました(不適切でしたらすみません)。
街道を通じて、日蓮の足跡~信仰路~をたどる旅も、良いかもしれませんね。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回もよろしければお読みいただけると嬉しいです。また、ぼちぼち記事の数も増えてきました。以前の記事も似たようにゆるゆると書いていますので、よろしければそちらもご覧ください。
それでは、スキマニウムでした!!
▽おまけ▽
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名越切通へ向けて歩く道すがら、パシャリ。この〝鎌倉を抜ける〟外端まで来た感のある風景、味があって好きです。
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鎌倉の地を外から一望する際にその存在感を発揮する白い塔。この塔を有する名越クリーンセンターですが、なんと令和7年1月(撮影一ヶ月前)にその稼働を停止し、老朽化のため解体処置が行われるとのことでした。
日々、移り変わる鎌倉の一刹那。その瞬間を余すことなく見届けられることができれば、と思ってしまうのも鎌倉の魅力だと改めて実感しました。
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新逗子隧道を抜けて、小坪隧道へ。いよいよ鎌倉の端に来てしまった感が高まる。途中逗子市の看板を見、さらば鎌倉の想い。
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トンネルを構築しているレンガ、趣深い。見てて飽きないですが時間は刻々と進んでいます。
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小坪隧道は日本土木学会から土木遺産指定を受けているほど。完成年は大正時代!
…………トンネルってイイネ。
新たな撮影基準が設けられた瞬間だった――
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ではでは、また次の機会に!