訪問記「示現神社」@那須烏山/谷浅見
遅くなりましたが、あけましておめでとうございますm(__)m
今年はいろんな場所へ赴いてたくさん記事を書いていこうと思うので、どうぞよろしくお願いいたします!
さて、今回はまたまた国道294号線を辿ってスポットへと向かいます。
ちょうど仕事始めの時期ではありましたが、道路は比較的空いている様子。冬空の下、日差しを浴びながらひた走るドライブは心地いい気分でした。
途中谷浅見の地名が見える辺りで脇道に逸れ、民家の立ち並ぶ細い道を進むと、那珂川の脇を通る道を進んでいきます……
はい、やってまいりました。
こちら、那須烏山市谷浅見という場所にある「示現神社」です。
示現神社という社号、珍しいなと思ったのですが、由緒は次の通りです。
正慶2(元弘3/1333)年9月の創建とのこと。北朝の元号を用いているのですが、正慶年間は3年(1334年)までで、光厳天皇が退位して後醍醐天皇が正慶元号を廃止させています。ならば後醍醐天皇の〝建武〟を用いるのかと思いきや、「建部武二葵」と回りくどく記述しています(二葵って二年の意味と捉えていいのでしょうか?)。
看板の説明文、一見すると分かる通り前半は明らかに書き下し文で、後半の近現代は現代的な文体になっています。前半の説明文の元となる史料があるはずなのですが、出典の記載はなし。どういう立場で書かれたのか気になります……。
当地は、そういえば那須烏山。この神社から少し南へ行くと、那須氏が本拠としていた「烏山城」がありますし、北には「神田城」という那須氏の祖である須藤権守貞信(藤原資家※藤原北家後裔を称す)が居城とした地もある通り、那須氏のテリトリー。そんな那須氏、鎌倉時代は関東八屋形の一つに数えられるほどに有力な氏族でしたが、白河結城氏に伝わる『白河文書』には南北朝時代の那須氏が北朝方に与していたという記述があることから那須氏に関わる立場で記された史料・資料が出典かもしれないですね。
話が逸れましたが、示現神社の社号の由来は、
二荒神(ふたあら)➡二現神(にげん)➡示現神(じげん)
とのことです。興味深い変遷ですね。
参拝した感想ですが、非常に空気も澄んでいて、今でも地元の方に大切に管理・整備されているおかげもあって清潔感のある素敵な神社でした。14世紀に創建されたという長い歴史を持った神社ということで、ここから谷浅見の地を見守ってきた鎮守の社、真摯にお参りさせていただきました。
今回訪問記という形でしたが、半分正月特別版ということで、初詣的意味合いのご紹介でした。ちなみにこの撮影の数日前に宇都宮二荒山神社で初詣をしてきましたので、厳密には初ではありませんが……
示現神社が二荒山神社からの勧請ということで、由緒繋がりの参拝となりました。
那須氏繋がりの訪問記ということで、今度は烏山城へ足を運び、また説明板の出典元の史料を探して、何か共通項がないか調べていきたいと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。
次回もよろしければ楽しんでいってください。
それでは、スキマニウムでした!
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恐らく示現神社はこの二荒山神社から勧請されています
やはり関連のある神社。いざ参拝――
……また今度!
終
制作・著作
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