「元ギャング」だの「元売人」だのに共感できない人のための西海岸オルタナティブヒップホップ。
音楽業界どころかハリウッドや政財界まで巻き込む一大騒動となっているショーン・コムズ(以下P・ディディ)の一件。アメリカ本国はこの第2のエプスタインの話題で持ちきりの模様。
このまま芋蔓式に事実認定が波及していけばR・ケリーの時の比じゃないくらいのアメリカ音楽史上類を見ない衝撃的な事件になるだろうけど、今はとりあえずエグいスキャンダル(もう既にスキャンダルの域は超えているが)として静観し続報を待ちたい。
この一件で、ワインスタインの時のブラピと同様に株が爆上がりしているエミネム。
この一件が発覚する遥か昔から執拗にP・ディディをDisり続けていた(特に2PAC殺害首謀の嫌疑で)エミネムは、単に「ヒップホップ史上最も売れたラッパー」ではなく、「我々の知らない水面下でずっと悪魔(P・ディディ)と戦い続けてきた英雄」として語られ、ジョン・レノン、ボブ・マーリィと並ぶミュージシャンの枠を超越したカリスマティックなアイコンとして世界のポピュラー音楽史に名を刻む可能性が出てきた。
P・ディディの大豪邸への家宅捜索ではセレブたちへの児童売春斡旋用と思われる大量のベビーオイル、乱交パーティに強制参加させられていた女性や未成年者への投与目的と思われるケタミンやMDMAや馬用の精神安定剤、さらにシリアルナンバーを削ったライフルや大量の弾薬も押収されたらしく、家宅捜索というより犯罪組織のアジトへの潜入捜査に近かったっぽい。実際に家宅捜索で動いてたのは武装したホームランドセキュリティ(国土安全保障省の対テロ部隊)である。
噂レベルならアリーヤとレフトアイの死にまでP・ディディ(および彼と懇意のジェイ・Z&ビヨンセ夫妻)が関与しているという話もあって、そんな男に報復を恐れずパンチラインをぶっ刺しつづけてきたエミネムの漢っぷりには改めて頭が下がる。
とにかくブラピもエミネムも、そのカッコ良さはハリボテじゃなく本物だった。
さて、本題。
USヒップホップを語る上で避けては通れない東西抗争。
P・ディディが設立したニューヨークのバッドボーイレコードと、シュグ・ナイト(こちらも現在ひき逃げ死傷事件で服役中)とドクター・ドレーが設立したロサンゼルスのデスロウレコードとの対立から、所属アーティスト同士の音源内でのDisり合いがエスカレートし、物理的な発砲行為の応酬にまで発展し、最終的に双方の看板アーティストだったノートリアスB.I.G.と2PACの殺害事件という悲劇的な形で幕を閉じた。
この東西抗争は、結果的に「USヒップホップ」というシーン全体に対する注目度を高めるのに大きな役割を果たし、元々はヒップホップの一ジャンルでしかなかったギャングスタラップ、Gファンク界隈がヒップホップのメインストリームとして認知され、その後MTVと結託してアメリカの音楽シーンを席巻していくことになる。
MTVのミュージックビデオ群とともに日本に紹介されたそれらのヒップホップは、薬物摂取などの犯罪行為の助長、ポルノまがいの表現がふんだんに盛り込まれていて、その下品さに振り切った(それがアメリカの良さでもある)クリエイティビティに馴染めない音楽ファンも多く、熱烈なファンと同時にヒップホップという音楽ジャンルそのものを毛嫌いし遠ざけるリスナー層も生んだ。
しかしそれは日本に限った話ではなく、本国アメリカにもギャングスタラップやGファンクに対する「本来のヒップホップの勘所はそこじゃねえだろ」という気概を持ったカウンターヒップホップシーンが多く存在した。
今回はその一つ、オークランドのHieroglyphics(ハイエログリフィクス)周辺のシーンをご紹介したい。
90年代オークランドヒップホップシーンの中心人物といえばデル・ザ・ファンキー・ホモサピエンである。彼はアイス・キューブをいとこに持つラッパーで、その強力なコネクションをもって1991年に1stアルバム『I Wish My Brother George Was Here』をリリースし商業的な成功を収める。しかしそのアルバムの出来栄えに満足していなかったデル本人は、以降アイス・キューブとのプロダクト関係を断ち切り、ギャングスタマインドとは縁遠いオークランドコミュニティのヒップホップシーンをレペゼンする方向に舵を切る。
デルはオークランドのラッパーたちを集結しヒップホップクルー「Hieroglyphics(ハイエログリフィクス)」を結成。メンバーはデルの他にカジュアル、ペップ・ラブ、ソウルズ・オブ・ミスチーフのメンバー、プロデューサーのドミノらで構成され、それぞれがファンやスマッシュセールスを持つオークランドのヒップホップコミュニティのオールスタークルーだった。
Corner Story(1997) / Del The Funky Homosapien
Who's On It (1994) / Casual featuring Pep Love and Del Tha Funkee Homosapien
We Got It Like That (1994) / Casual
Step Off (feat.A-Plus) (1998) / souls of mischief
Postal (2009) / souls of mischief
Miles to the Sun (1998) / Hieroglyphics
メインストリームの主流だったダーティで攻撃的なヒップホップではなく、メロウでクールなトラックとコンシャスでポジティヴバイブスなリリックを特徴としたハイエロ周辺のヒップホップは、ネイティブタン一派やファーサイドから連なるニュースクールリスナーたちの期待に応え、「犯罪者やその予備軍ではない人たちがつくるヒップホップ」の存在を大いに示した。
ハイエロ周辺のシーンの盛り上がりと同時期に、ロサンゼルスではよりファンキーさを前面に押し出したジュラシック5やダイレイテッド・ピープルズ、アグリー・ダックリングらも登場し、西海岸のデスロウ帝国への同地域内のカウンターとして「西海岸オルタナティブヒップホップ」という一つの概念的なシーンが形成され、メインストリームのショービズヒップホップとは価値観が相入れない世界中の音楽リスナーの受け皿、入門口として現在も機能している。
ちなみに当時このハイエロ周辺のコミュニティを出入りしていたのがShing02であり、ヒップホップを毛嫌いしていた日本国内のロックファン層にShing02が受け入れられたのには彼のそんなオルタナティブな自出も関係していると推察できる。
真吾保管計画 (1999) / Shing02
西海岸にはもう一つ、アンチコンというレーベルによるアングラヒップホップシーンがあったり、東海岸にはMFドゥームがいたりロウカスレコーズがあったり、南部からはアレステッド・デヴェロップメントも登場したが、その辺については機会があればまた。
まずはハイエロ周辺で、苦手だったヒップホップに足を踏み入れてみてほしい。
彼らは未成年の児童たちの服を脱がせてセレブにあてがうような鬼畜の所業をする心配はないので、安心してその音楽に身を委ねよう。
パフ・ダディもジェイ・Zもビヨンセも、自分のライブラリに一曲も入れてなかった自身の勘の鋭さに感謝して、寝ます。