永遠の若大将・加山雄三の海で泳ぐ夏。
「日本で初めてサーフィンをした男」とか、「光進丸で勝手にグアムの無人島に上陸して米軍機に撃墜されかけた」とか、海にまつわる数々の都市伝説を持つ加山雄三。
たぶんその殆どが真っ赤なデマだけど、「加山雄三ならあり得なくもない」と思わせるほどの不思議な魅力を持つ人である。
「おれサブカル畑だけどアイドルソングも歌謡曲も評価しまっせ」みたいなお為ごかしのフックの道具に使っている訳ではなく、私は純粋にミュージシャン・加山雄三が作る音楽のファンである。
加山雄三は1937年(昭和12年)に俳優の上原謙、女優の小桜葉子の間に生まれ、神奈川県茅ヶ崎市にて幼少期から青年期までを過ごした。慶應義塾大学卒業後に東宝に入社し、主演を務めた「若大将シリーズ」で一躍スターとなる。
学生時代のバンド経験もあり、「若大将シリーズ」の設定上、作中でギター演奏や歌声を披露するシーンが多かった加山だったが、当初はもちろんその主題歌や挿入歌についてはプロの職業作家が作っていた。しかし徐々に加山自身の作曲(別名義:弾厚作として)したオリジナル楽曲が増えていくようになる。
本格的に加山のオリジナル楽曲が使用され始めるのが1965年公開の『海の若大将』作中の挿入歌『恋は紅いバラ』からである。そして、同年公開の『エレキの若大将』の主題歌『君といつまでも』が350万枚の大ヒットを記録する。
クラシックやジャズに倣って進歩してきた音楽業界では分業体制、つまり「作曲家」「演奏家」「歌い手」が完全に独立した創作活動が主流であり、まだまだ演歌と歌謡曲が羽振りを利かせていた当時の日本で、加山雄三は自分で作曲し、演奏もして、自ら歌も歌う「自作自演のシンガーソングライター」として成功を収めたほぼ最初のミュージシャンである(世界規模で最初にそれを始めたのがビートルズ)。
その後に続いたのが70年代のフォークミュージック勢やニューミュージック勢であることを考えると、その功績だけでも日本のポップス史における加山雄三の偉大さが理解できると思う。
現に山下達郎、竹内まりや、松任谷由美、桑田佳祐などなど錚々たるミュージシャンたちが加山からの影響と加山への尊敬の念を口にしている。
ベンチャーズ直系のエレキギターサウンドと茅ヶ崎というバックボーンから生み出されるフレッシュさとムーディーさを兼ね備えた音楽性で、歌謡曲からJポップへの進化の橋渡しをおこなったリゾートミュージック界の最長老であり、加山雄三がいなければシティポップも、いとしのエリーも、中シゲヲも生まれなかった邦楽界の最重要人物である。
お嫁においで
恋は紅いバラ
蒼い星くず
夜空の星
まだ見ぬ恋人
ある日渚に
君といつまでも
Dreamer~夢に向かって いま~
とにかく、加山雄三の音楽を聴いてると元気が出る。それに尽きる。
サウンドもメッセージもシンプルで、現代的な複雑な悩みを包み込んでくれる大らかさがある。
巷に溢れる、苦悩の渦中にいる人に寄り添って頭を撫で撫でしてくれるような音楽ではなくて、「四の五の言わずに前を向けよ青年!」とケツを叩いてくれるのが加山雄三なのである。
それは父のようであり、そしてやっぱり、海のようである。
海、その愛
加山雄三が「俺の海」って言ったらもう、「加山雄三の海」なのである。
ミュージシャンとかアーティストっていうのは基本、「世界はみんなのモノ」とか「地球はみんなのモノ」みたいなピースフルなシェア精神を発信するのが通例なのだが、加山雄三は違う。世界広しと言えど、海を自分の所有物だと宣言したミュージシャンは後にも先にも加山雄三ただ一人である。
だから、海はもう、加山雄三のものでいい。
日本海も太平洋も、日本国のものではない。
「加山雄三の海」なのである。
注:作詞は加山さんではありません。
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