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なぜ私も、私の友人も、フィンチャーも、Pixiesに惹かれてしまったのか。

私が初めてピクシーズ(Pixies)の名前を知ったのは、ナンバーガールのアルバムのライナーノーツである。

日本のアーティストのCDにライナーノーツが入っていること自体が珍しかったので何度も読み返した記憶がある。ちょうど洋楽ロックを聴き始めようと思っていた頃だった私は、当時流行りだったグリーン・デイとかオフスプリングとかそういうポップパンクバンドじゃなくて、「ナンバーガールっぽい洋楽のロックバンド」が聴きたかった。そのライナーノーツに書かれていた「ソニック・ユース」と「ピクシーズ」という謎のバンド名を頼りに、地元のタワーレコードに彼らのCDを探しに行った。ソニック・ユースのCDは見つからなかったが、ピクシーズのCDを一枚だけ見つけて購入した。輸入盤の『Complete B-Sides(2001)』だった。生まれてはじめての輸入盤。
家に帰って、「何だこのシール」と思いながら輸入盤特有のプラケース縁にあるバーコードシールをなんとか剥がして、いざ聴いてみた。


……..肩透かしとはこのことだった。
ナンバーガールっぽさのカケラも感じられない、ダラダラしたロック。全然良くない….。このバンドの何が良いんだ…。
洋楽って難しい…..。

私のピクシーズの第一印象は、それ以上落ちようが無いほどに「最悪」だった。


今振り返ってみれば何のことはない、初めて買うアーティストのCDで、オリジナルアルバムではない渋い企画盤や謎の編集盤に一番最初に手を出してしまう、というコッチ側の典型的なミスであり、そんな在庫しか置いていなかった地元のタワレコ側のミスであった。私自身が「B-Sideってなに?おいしいの?」みたいな状態の小坊主だったし、まぁ当然である。

そんな出会いを経て、後に私もしっかりとオリジナルアルバムを聴きはじめて、最悪だった第一印象が払拭されたどころか、思春期に一番聴いた外国人男性の声がブラック・フランシスとなった。


ピクシーズ(正式名:Pixies in Panoply)は、マサチューセッツ大学のルームメイト同士だったボーカル/ギターのブラック・フランシスとギターのジョーイ・サンティアゴに、バンドメンバーの募集広告を見たボーカル/ベースのキム・ディールとキムの夫の友人だったドラムのデイヴィッド・ラヴァリングを加えて1986年に結成された。
結成翌年にイギリスのインディーレーベル4ADと契約。1987年にミニアルバム『Come on Pilgrim』でデビュー。翌年にフルアルバム『Surfer Rosa(1988)』、さらに翌年に『Doolittle(1989)』と立て続けにアルバムを発表し、英米両国、とりわけインディー系メディアから絶賛され、『Doolittle』はリリース週に全英チャート8位を記録した。

Something Against You (1988) / Pixies ※視聴年齢制限あり


Broken Face(1988) / Pixies


Tony's Theme(1988) / Pixies


Gigantic(1988) / Pixies


The Holiday Song(1987) / Pixies


Debaser (1989) / Pixies


Here Comes Your Man(1989) / Pixies


Mr. Grieves(1989) / Pixies


Crackity Jones(1989) / Pixies


ピクシーズの音楽性は、いわゆるハードロック系のギターソロが無い、フィードバックノイズとディストーションギターを駆使したリフが主体の「陶酔感よりも疾走感のある」ロックだった。
結成当初のバンドコンセプトは「ハスカー・ドゥ meets ピーター・ポール&マリー」。確かに中期ハスカー・ドゥの『NEW DAY RISING(1985)』辺りと近い音楽性だが、ピクシーズとパンク/ハードコア勢との根本的な違いは、単調な8ビートのパンク/ハードコア勢には見られなかった、フィルを多用したフラッシーなドラムである。そこにフォークミュージックに慣れ親しんできたキム・ディールの素朴で品のある歌声が絡み合う。「パンクとサーフロックの結婚」と評されたように、アルバム全体、楽曲単体での「緩急」「ダイナミズム」がピクシーズ最大のオリジナリティであり、魅力である。

ブラックの歌詞は、聖書と性的タブー、宇宙やUFOなどのSF/オカルティズム、『アンダルシアの犬(1929)』や『イレイザーヘッド(1977)』などのシュルレアリスム映画、マゾヒズムや盗撮などの性的倒錯といったトピックへの脈絡の無い散文詩的な言及が特徴で、日本で言えば『月刊ムー』とか『危ない1号』の趣向性である。サンフアンへの交換留学経験からスペイン語詞が多く見られるのも独特で、お世辞にもビジュアル良好とは言えない小太りのオジさんがそれらをがなり立てて歌う。他のメンバー達も地味で冴えない。
そして確信犯的に皮肉を効かせたバンド名「Pixies(妖精たち)」。

ブラックのクワイエット&シャウトはエモの原型であり、ポップなメロディからの突然のバーストのような「極端な緩急」を多用する楽曲構成は『Smells Like Teen Spirit(1991)』および後のポストロックの元ネタとなった。
ピクシーズに「ヘヴィーノイズとポップのミクスチャー」を見出したカート・コバーンはご承知の通り音楽界のカリスマとなり、『Surfer Rosa』はトム・ヨークの人生を変え、そのレコーディングをしたスティーヴ・アルビニはプレイヤーとエンジニア双方の面でインディの帝王となった。「多人種、女性ベーシストを据えた男女混成」という完全なピクシーズのスタイルコピーバンドを率いたビリー・コーガンはグラミー賞にノミネートされ、U2のボノはピクシーズを「80年代全体で最も魅力的な音楽」と評した。日本では、国内において恐らく初の「高水準なピクシーズフォロワー」だった向井秀徳がジャパニーズオルタナティブロックシーンの土台を形成した。

ピクシーズは音楽性とスタイル、その両面で「オルタナティブロックの見本」のようなバンドであり、間接的な影響まで含めると、現在の世界の音楽シーンでピクシーズの影響下に無いロックバンドはほぼ皆無と言って良い。

ピクシーズはその成功と名声の裏で、シュツットガルトでのライブ中にブラックがキムにギターを投げつけたり、キムがフランクフルトでのライブ出演を拒否するなど、メンバー間の緊張状態が続いていた。最終的にはブラックとキムの慢性的な不仲が原因で、ピクシーズはデビューからわずか5年、オリジナルアルバム4枚を残して1993年に解散した。

しかしその後、前述のカート・コバーンやトム・ヨークといった次世代のカリスマ達によるピクシーズへの度重なる言及によって、現役当時のピクシーズを知らない下の世代にまでその名が知れ渡ることとなり、ピクシーズの存在は「オルタナティブロックの祖」として徐々に神格化されはじめ、世界各地でロックフェスが次々と誕生しオルタティブロックシーンが一大産業化するのに伴って、「ピクシーズ待望論」が沸々と湧き上がるようになった。
そしてそれらの声に応え、ピクシーズは2004年に10年越しの再結成を果たす。
その「待ちに待った」感は、最初のツアー日程のチケットが数分で売り切れるほどだった。

最終的にキムは離反するのだが、ピクシーズ自体はキム以外のオリジナルメンバーに新たなベーシストを加えながら、現在も活動中である。



冒頭の話に戻るが、実はナンバーガールとピクシーズはあまり似ていない。
強いて言えばナンバーガールっぽいのは『Surfer Rosa』なのだが、それはスティーヴ・アルビニのエンジニアリングの賜物である。何ならビッグ・ブラックの方がナンバーガールと雰囲気は近い。

「ナンバーガールに似てる」という代替品としてではなく、スタンドアローンな魅力だけで私が初めて好きになった海外のバンドがピクシーズだった。

友人と一緒に観た『ファイト・クラブ(1999)』のエンディングで『Where Is My Mind(1988)』が流れた時、「良い曲だ」と呟いた友人に、「ピクシーズ」とすぐに答えられた自分が誇らしくて、デヴィッド・フィンチャーとも、その友人とも感性が繋がった気がして嬉しくなったのは、良い思い出である。

今はその友人とも喧嘩別れをしてしまったけれど、それもまた一興。


ちなみに私は『セブン(1995)』のほうが好きです。

Where Is My Mind(1988)/ Pixies


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