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「二人の天才」がせめぎ合ってギリギリ共栄共存していたSUPERCARの儚い魅力と、「オルタナティブロック」について。
福岡県出身のNUMBER GIRL(ナンバーガール)、京都府出身のくるり、そして青森県出身のSUPERCAR(スーパーカー)。
1990年代後半の日本において、スタジオ音源の完成度の高さ、ナーディーな佇まい、ヒットチャートへのカウンターアイデンティティといった素養を兼ね備えて颯爽と現れたこの3バンドの登場以降、明らかに日本語ロックシーンの「空気感」は変わった。
この3バンドは後に「97年デビュー組」と呼ばれるようになり、ジャパニーズオルタナティブロックのパイオニアとして語られる事となる。
そもそもの「オルタナティブロック」という言葉については、今も昔もかなり概念的に使われているジャンル名なので、ここでザックリ説明しておきたい。
「オルタナティブロック(意訳:既存に代わるロック)」の萌芽はザ・スミス(The Smiths)である。
1983年にロンドンのインディーレーベルRough Tradeからデビューしたザ・スミスは、ポリティカルでアンニュイ、かつメロウな音楽性に加え、インタビュー等でマドンナやエアロスミス、エルトン・ジョンといったポピュラーミュージック界隈の大御所たちを公然と扱き下ろす反権威/反商業主義を貫徹する新世代のロックバンドとして登場した。フロントマンのモリッシーはサッチャー政権下における反ネオリベのアイコンとしてカリスマ化し、ザ・スミスはアルバムを出すたびにUKチャート上位を占有した。
わずか5年という短い活動期間で強烈なインパクトを残したザ・スミスの音楽性およびインディペンデントな姿勢は、オアシスやブラー、マイ・ブラッディ・バレンタインら後続のロックバンドに多大な影響を与え、さらに次の世代、そのまた次の世代へと連綿と受け継がれていき、90年代以降から現在に至るまでブリティッシュロックシーンのエートスとなっている。
他方80年代後半のアメリカ、シアトルのインディーレーベルSUB POPからデビューしたニルヴァーナ(Nirvana)は、既にメジャー契約を果たしていた盟友のソニック・ユースのツテを頼りに、ロサンゼルスのメジャーレーベルGeffen Recordsから2ndアルバム『NEVERMIND(1991)』を発表し、翌年1月にビルボードチャート1位を獲得する。
ブルース・スプリングスティーンでもボン・ジョビでもメタリカでもないアメリカ産の謎のロックバンドが、当時人気絶頂だったマイケル・ジャクソンをビルボードチャートトップの座から引き摺り下ろしたインパクトは絶大で、さらにフロントマンだったカート・コバーンのカリスマ性とファンション性も相まって、世界中に「USインディーロックシーン」の存在をプロモートすることとなった。
それを皮切りにベックやR.E.M.、スマッシング・パンプキンズなど商業的に成功を収めるインディー出身のバンドやアーティストが続々と登場し、さらにシカゴのロラパルーザ、カリフォルニアのコーチェラ、イギリスのグラストンベリー、日本のフジロックフェスティバルなど、インディー出身のアーティストに特化したラインナップの野外ロックフェスティバルも世界各地で興隆し、彼らに類するアーティストたちの音楽活動を後押しした。
80〜90年代にかけての英米におけるこの一連のムーブメントは、ノイズ、グランジ、ハードコア、ポストロック、ミクスチャー、ギターポップ、シューゲイザー等々バンドによって音楽性が多種多様で、さらに厳密に言えばインディーレーベル出身ではない(活動姿勢としてインディペンデントを標榜しているがメジャーレーベル所属の)アーティストも多かったため、単に「インディーロック」と呼ぶことが出来なかった。説明に困り果てた世界中の音楽ライターやラジオDJらはそれらを包括的かつ概念的に指し示すジャンル名として「オルタナティブロック」という言葉を発明し、音楽リスナー側にもその呼び名が普及した。
総じてオルタナティブロックに括られるバンドたちには唯一の共通項があり、それは「革ジャンを着なくなったロック」であるという点である。
襟元がヨレヨレのTシャツとクラッシュデニムとコンバースオールスター、みたいな格好でライブのステージに登場する彼らの「着飾らない」スタイルそのものが、商業音楽化したティピカルなロックに対する反発やアンチテーゼの象徴であり、実は「オルタナティブロック」という概念の核心で、説明として一番わかりやすい。
友達に「オルタナティブロックってなに?」と聞かれたら、「革ジャン着てないインディーロックだよ」と言っておけば、多少の例外はあれど概ね間違いは無い。
さて、本題のSUPERCAR。
長かった本題まで。
SUPERCARは青森県十和田市出身で中学時代の同級生だったボーカル/ギターのナカコー(中村弘二)、リードギターのいしわたり淳治、ドラムの田沢公大に、八戸市でバンドメンバーを探していたボーカル/ベースのフルカワミキを加えて1995年に結成された。
2年後の1997年にSONYのレーベルEpic Records Japanからシングル『cream soda』にてメジャーデビュー。
轟音フィードバックギターが鳴り響くマイブラ直径のシューゲイザーバンドとしてキャリアをスタートさせたSUPERCARは、1stアルバム『スリーアウトチェンジ(1998)』でオリコンチャート20位を記録する好調なスタートを切る。
SUPERCARについて、先入観で「ナカコーのワンマン体制」というイメージを持っているリスナーが多い印象だが、実際には作詞と作曲が完全分業体制でおこなわれていて、ナカコーが全ての作曲を、いしわたり淳治が全ての作詞を担当している。
cream soda(1997) / SUPERCAR
Hello(1998) / SUPERCAR
Sun Rider(1999) / SUPERCAR
Flicker(1999) / SUPERCAR
ナカコーの作曲は、轟音ギターの洪水の中に一縷のメロディアスなリフやメロディを内在させる絶妙なバランス感覚が最大の魅力である。平明に言えば「うるさいけどポップ」な上に、アレンジも抜群。SUPERCARが単純なCDの売上枚数やチャート順位でNUMBER GIRLに先手を取っていたのは、ナカコーの良い意味での大衆的な感性のおかげだったのだろうと思う(一応言っておくけど私はNUMBER GIRLも同じくらい好き)。
いしわたりの書くでセンチメンタルでニヒリスティックな歌詞は、ナカコーのレイジーでクールな歌声と見事にマッチしていて、ナカコー本人が作詞していないのを初めて知った時は私も驚いたし、これぞ幼馴染同士の成せる業だなと感心した。もちろんフルカワミキが歌う楽曲やパートも同様に完成度が高く、後にSuperflyの『愛をこめて花束を(2008)』を生み出すいしわたりの作詞家としての末恐ろしい才能がこの時点ですでに垣間見える。
2ndアルバム『JUMP UP(1999)』も好調で、オリコン最高位12位を記録。最初期の未発表音源をコンパイルした企画アルバム『OOKeah!!(1999)』『OOYeah!!(1999)』もオリコン30位台のスマッシュセールスとなる。
そんな中、プライマル・スクリームの『Screamadelica(1991)』やROVO、コーネリアスなどの影響でテクノ/クラブミュージックに傾倒していた当時のナカコーは、3枚目のアルバム『Futurama(2000)』にて突如としてエレクトロサウンドとロックとの融合を図る。
WHITE SURF style 5. (2000) / SUPERCAR
Karma(2000) / SUPERCAR
FAIRWAY(2000) / SUPERCAR
進化の道程としては同じ2000年に『KID A』を発表したレディオヘッドと似通っているが、SUPERCARの方がよりロックサウンドを残したアプローチだった。その新たな音楽性は音楽関係者や当時の音楽リスナーにも好意的に受け止められ、『Futurama』は現在でもSUPERCARの「最高傑作」との呼び声が高い。
しかし、この音楽性のシフトチェンジによって、歌詞にもダンスミュージック的な記号化を求めるようになったナカコーと、それに難色を示す作詞担当のいしわたりとの間に不和が生じ始める。
続く4thアルバム『HIGHVISION(2003)』ではさらにエレクトロ/シンセポップに接近しロックの原型はもはや無くなったものの、収録曲である『YUMEGIWA LAST BOY』と『Strobolights』が映画『ピンポン(2002)』のそれぞれ主題歌・挿入歌に起用され話題となり、結果的にSUPERCARのキャリアにおいて最高の売上を記録するアルバムとなった。
YUMEGIWA LAST BOY(2001) / SUPERCAR
Strobolights(2001) / SUPERCAR
しかしこの成功はその裏で、「曲が良ければ別に歌詞なんていらない」と主張するナカコーおよびフルカワと、「歌詞の方が重要」と主張するいしわたりとの対立をさらに加速させた。
結果的に最後のアルバムとなった『ANSWER(2004)』発表後、SUPERCARは2005年のラストライブをもって解散した。
ラストライブの模様はDVD化されており、はじまりの挨拶も終わりの挨拶も、合間のMCもアンコールも無く、掛け声も一体感も覇気も無いまま、ただただそれぞれのメンバーがそれぞれの担当楽器の演奏を淡々とこなす様子が映像として記録されている。
解散時、いしわたりがsnoozerのインタビューにてナカコーとフルカワに対して「俺の人生から退場してほしい」と発言するほど、活動後期のバンドの内情はグチャグチャだったようだ。
SUPERCARというバンドは、熱心な音楽ファンの間では、「ナカコーといしわたり淳治という強烈な2つの才能のせめぎ合いの結果、空中分解したバンド」として認識されている。
反面、ライトなリスナー層にとっては、彼らの代表曲である『YUMEGIWA LAST BOY』や『Strobolights』がメンバーの関係性がほぼ壊滅状態の最中に生み出されたものだった、という事実など想像もつかないだろう。確かにそれをまるで感じさせないほど完成度の高い2曲だが、そのコントラストが逆に残酷だったりする。
ナカコーといしわたり淳治、どちらの「天才」も責めることはできない。
解散時の二人の年齢は28歳である。
若過ぎたのももちろんあっただろう。
「ジャパニーズシューゲイザーの先駆者」としての音楽的魅力だけでなく、雪深い青森からたった4人で上京し、いつの間にかジャパニーズオルナタティブロック黎明の最前線に立たされた若者たちの、若さゆえの危うさ、キラキラした儚さを生々しくドキュメントしたような彼らの存在そのものこそ、SUPERCARの魅力なのである。