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書くことについて
あみちゃんへ
まずは、こうして文通を始められたことに感謝です。
コロナ下で人と接する機会が激減してしまった今、自分の頭の中ではぐるぐるモヤモヤ色々なことを考えているのですが、
なかなかそれを吐き出す場がなく、心身共にショートしてしまっているこの頃です。
家に篭っていると、他人の言葉に触れる機会というのがSNSの中に限定されてしまって、これがどうも大変疲れる。
見てくれ!聞いてくれ!拾ってくれ!
という叫びのような声が波のように押し寄せてくるようで、
しかもそれらの多くは見ず知らずの誰かから発されたもので
そういうのを際限なく受け止めようとすると
何が今の自分にとって大切なことなのか、
どんな言葉や事象に向き合うべきなのか、
という冷静な思考を失ってしまう。
情報疲れというんですかね。
明らかに情報を拾いすぎている。
本当は目の前にもっと向き合わなきゃいけない問題があるはずなのに、
どこか遠くの何かを必死に掴もうとして
結局それが空振りしてただただ疲れてしまうんだな。
あみちゃんが先日SNSをやめた、
と言っていたけどそれは一つの賢明な選択だと思う。
大学を卒業してからレポートや論文を書かなくなって、
自分の思考を整理する場というのが極端に少なくなった気がする。
あれ、とっても大事な作業だったんだよね。
自分や社会の現在地を知るためにも、とても大事な作業だった!
ということに最近気づきまして…
ああ、自分の言葉で語ろう、そして自分のそばにいる人の声に耳を傾けよう、と強く思うようになったのです。
自分の手の届く範囲で世界を構築していく感じかな。
言葉を編むことでそういう実感を得たいのかもしれない。
今ね、仕事で真珠湾攻撃に参加した兵士達の生き様を追ったドキュメンタリー制作のお手伝いをしているのだけど、
本人達は戦死しているか、戦後生き残っても齢100を超えているような人ばかりで、当事者に証言を直接聞くということが大変難しいのね。
そこで、重要になってくるのが彼らが書き残した手記でして、
(昔の人ってさ日記をマメに書いているんだよね。)
それを通して、ああこの人達はこういうことを思いながらこの時代を生きていたのか、
と80年後に生きる私が勝手に想像を膨らませるのだけど、それが結構面白くてね…。
太平洋戦争の最中に最前線で戦っていた兵士とか、明日特攻にいくという状況の中でも筆を取って何かしら書き留めていたりする。
明日死にます、っていう時にそんなことができるのか?!
と思ったけど、そういう時だからこそ書くことをやめなかったのかな、とも思う。
昔の人が書いた日記を読むことを通して
死が眼前に迫っている人達が必死に書いたのも自分が生きているという実感を得たかったからなのかな、
と思い至りました。
書いて改めて自分の現在地を知る、
これっていつの時代に生まれても同じことなのかもしれない。
ここまで思いついたことをつらつら書いてみたけれど、
これだけでも自分の中で整理のつくことが多くある気がします。
それとね、文通を重ねて自分の表現力を高めたいですわ!
言葉を綺麗に使えるようになりたい!
ひとまずの目標です。
ではでは。お返事待ってます。