見るなら、いい景色を
もえちゃんへ
初のお手紙と、こんな素敵な機会をありがとう。
先日、私の友人が主催した入管法についての勉強会にダメ元でもえちゃんも誘ってみたのだけど、しっかり食いついてくれて嬉しかった!笑
たしかに、誰かと話したい。話したいけれどSNSを開いては疲れる、の繰り返しで。オフラインで気軽に誰かと話せる環境がいかに恵まれていたかを実感する今日この頃でした。
でも、そんなことがあったからこんな日記文通のような試みも始まったわけで。
遡れば言論空間を始めたのも、
私たちが出会えたのも、
もしかしたらこのコロナのおかげかなと思うとほんの少しだけきもちが落ち着く。
ご都合主義でも何でもよし!暗いことばっかりじゃなくいいところにもフォーカスしてたいよね。
情報疲れの話題に戻る。
もえちゃんの言う通り、私たちは明らかに情報を拾いすぎてる。本当にそう思う。
とくにTwitterなんて、あらゆる人が血相を変えて自分の意見にそぐわない側の意見を排除している様子が目にみえてわかっちゃうもん。
そしてだんだん私は、いろんな人がいろんな意見を言っているというこの状況がめちゃくちゃ怖くなってしまった。
世界中の人がみんな、自分の正義を振りかざしているような……
“私が正しくてお前が間違ってる”、みたいな……
世の中がそんなふうに見えてしまってたんだよね。
だからこの話題になると、パートナーや家族との間でも勝手にピリピリしてしまっていたし、最終的に「コロナ」とか「ワクチン」とか「陰謀論」とか、そういうワードがダメになっちゃって。笑
それでTwitterをやめてしまって、今ではすっかり情報難民です……。
たしかにその判断は間違ってはいないとも思う一方で、
落ち着いて深呼吸したら、この世界に疲れた私の脳が暴走してるだけな気もして。
激しい言葉が飛び交ってるのはTwitterの中の話であって、
別にリアルな周りの人が自分の意見を強要してくるわけではないし、
何より主体の価値観ごとにどの意見も正しく見えたり間違って見えたりするというのは当然のこと。
だからこそ個人がしっかりと今の状況を見極めて、それぞれで判断していくしかないんだと思う。
最近は冷静にそう思ったりもしてるわけです。
こないだ読んだ吉本ばななさんの著書で、『スウィート・ヒアアフター』という小説があるんだけどね。
大きな自動車事故で恋人を亡くして、自身はお腹に棒が刺さりながらも生き延びた、そんな主人公の言葉に一瞬で納得させられた。
「そういうのをねたましいと思うのは、親からもらったねたみぐせがある人だと思う。自分がどんな境遇にいても幸せや赤ん坊はただただ無条件にまわりに力をくれるものだ。〔中略〕人の心の中のいい景色は、なぜか他の人に大きな力を与えるのだ」
妬み嫉みだけじゃない。
アイロニカルな思考回路や穿った見方というものに私たちは敏感になってるけど、それらは知らず知らずのうちにどこかで身につけてしまってる「だけ」な気がするんだよね。
私がこの世界を歪んだ目で見てしまっていたのはSNSをはじめとしていろんな要因があると思うんだけど、
全員がそうじゃないってこととか、
世間の風潮的に“そう思わないといけないからそう思ってる”人も多いってこともあるんじゃないだろうか。
どんな出来事も落ち着いて、まっすぐに澄んだ目で見通したい。
大変なこともたくさんあるけれど、きれいなもの見てきれいだと思える感性をなくさないようにしたいな〜なんてことを思ったり。
こうして最近のことを書き連ねていると、
もえちゃんが書いてくれた、戦時中の人々の手紙のエピソードもとっても興味深いなと思って。
極限状態にあったであろう彼らが、純粋に「言葉を書き残した」っていう作業自体がまずすごいことだよね。
でも、それは私たちがいま置かれているこの世界に照らし合わせることで、ほんの少し理解できてしまう。
“自分が生きてる実感を得たかったのでは”っていうもえちゃんの推測もうんうんとうなずきながら読みました。
こうして自分の「言葉を編むことで」(素敵な言い回し!)、
あやふやだったきもちや思いが、形となって誰かに届く。
こちらが勝手に創り出したものでも、目に見える物体としてこの世に残ってしまうことの意味を考えだすと、なんだか途方もないね。
それでも、だからこそ、書き残したいのかも。
まずは自分の奥底に沈んだ小さな声を拾いあげることから始めてみようと思います。
ゆるりと続けていこう。
お返事待ってまーす。