「無依の道人」つづき
前回は「無依の道人」の「道人」について述べた。
「道人」を「人生」と置き換えて見れば、様々なご縁に生かされているのが私たちである。しかし、人は自分中心で考えてご縁を見た時、そのご縁を分別しがちになる。大きく分けて「良いご縁」「悪いご縁」のように自分にとってのご縁と言う立ち位置から話す。
しかし、禅の「無分別智」から考えれば、どのご縁も私を生かしめてくれている大切なご縁だということに気付くことが大事である。
人間誰しも「良いご縁」に恵まれたいものだが、そうは問屋が卸さない。
私達は、様々な道に出くわすように、悲喜苦楽交々の人生である。その何れも今日の私に必要なご縁であると気付いていくのが「無依」という働きに繋がっていく。
その例えとして、吉野弘さんの「生命は」を紹介した。
そこで、今回は「無依」について、私の見解を述べていきたいと思う。
『臨済録』には、次のような箇所がある。
大徳、汝、衣を認むること莫れ、衣は動ずること能わず、人能く衣を著く。箇の清浄衣有り、箇の無生衣、菩提衣、涅槃衣有り、祖衣有り、仏衣有り。大徳、但有る声名文句は、皆悉く是れ衣変なり。臍輪気海の中より鼓激し、牙歯敲カツして、其の句義を成す。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。大徳、外に声語の業を発し、内に心所の法を表わす。思を以って念を有す、皆な悉く是れ衣なり。汝、祇麼(いちず)に他の著くる底の衣を認めて実解を為さば、縦い塵劫を経るとも、祇だ是れ衣通なるのみ。三界に循環して、生死に輪廻す。如かず、無事ならんには。相逢うて相識らず、共に語って名を知らず。
ここには「人」+「衣」の関係を臨済禅師は示している。
衣は動かず人が着て動いているだけのこと。
例えば、「ラベル」と同様と考える。「ラベル」は動かない、人が即今、時・場所に応じて「ラベル」を張り替えていくだけのことである。
人はみなその場に随って何も拘りなくその役割を果たしている。
私の場合は、僧侶の時は僧侶、父親の時は父親、客人の時は客人、主人の時は主人というように、周りから見れば、その状況に応じたラベルで私を見ている。ただ、ラベルを張り替えているというだけで、私本人に変わりはない。しかし、「衣通なるのみ」とあるように、衣に詳しくなるだけで、そのラベルに拘ると間違いが起きる。分かり易く言えば、肩書を貴び絶対視すれば私達を縛るものにしかならないということだ。
よく名刺に肩書を所狭しに記載されているものがある。
決してそれが問題と言うことでは無く。その肩書が、人の本質を決めるわけではないということである。
一休宗純禅師の道歌にも、面白い歌がある。
雨あられ 雪や氷と隔つれど とくれば同じ 谷川の水
みんな形は違えども融ければ水である。元に変わりは無い。
人も同様、オギャーと産まれ、ウンと死んで、骨となっていくだけの事である。その間、色んなラベルを張り替えてそれらしく振る舞う。
しかし肩書や名誉、名声だけが全てではない。
それ以上に「どういう心で生きたか」ということが重要だということである
SNSで言えば「いいね」に惑わされる。
だから「相逢うて相識らず、共に語って名を知らず。」だ。
普段肩書というラベルで話してはいないか?それは表面〈ラベル・外面〉の話しで、真実の私、真実の相手ではない。
その衣(ラベル・肩書)を着替えている本体をしっかりと掴みなさい。と臨済禅師は示しているわけだ。
それこそ「無依」というものである。
「お前さんは何ものだ?」
こんな質問をされたら皆さんは何て答えますか?
先ずは名前を言うでしょう。しかし、それも付けられたもの。役職も立場も、どれもがそうだ。本当の私は何ものか?
だからこそ「無依」とは依るべきものを間違えてはいけない。依るというのは、常に自分自身の問題として捉えていくことが大事だということ。間違えれば迷いの中から抜け出せないのである。
「無依」だからこそ、闊達自在に考えなくても、ラベルを張り替えながら疑いも無くその場に随ってその場の役割を果たせているのである。
ラベルに拘るからおかしくなる。本体を知ってこそラベルを使いこなせるわけでもある。
私が家に帰って、子供が「お父さんお帰り!」と迎えてくれた時、「和尚さんと呼びなさい!!」と子供を叱ったら可笑しい話だと皆さん普通に感じるはず。
それを拘り、執着と言う。
それを臨済禅師は「衣通なるのみ」と言って、「相逢うて相識らず、共に語って名を知らず。」そんなものが大事ではないと云っているのだ。
自在に着替える本体が大事である。
悲しい時は悲しい
喜びの時は喜び
苦しみの時は苦しみ
楽しい時は楽しく
ただそれだけの事。
しつこいが「衣」で考えれば
悲しい時は悲しみの衣を着て悲しみ
喜びの時は喜びの衣を着て喜び
苦しみの時は苦しみの衣を着て苦しみ
楽しい時は楽しみの衣を着て楽しんでいる
それだけの事である。しかし、苦しみや悲しみに出会うと、人は抗ってしまう。その衣を嫌がる。
「私には、この衣合っていないわ」
「私の好きな衣じゃない」
このように、「良いご縁」「悪いご縁」も同じことが言える。
どんな衣でも自在に着こなしていくことで、味わい深い人生が生まれてくることを説いてくれているのが「無依の道人」という言葉である。
「無依」から「衣」を「無」くせば只の「人」が残る。
「無依」は「素っ裸の私」
もっと言えば、「素っ裸なったからこそ、あらゆるご縁に生かされていることに気付ける私」になる。
以上の事を、帆掛け船で考えると理解しやすい。
帆掛け船の原動力は「風」である。「風」無くして航海はできない。
だが、「風」に頼りっぱなしでもダメである。風にも色々なものがある。
「強風」「弱風」「台風」「大嵐」「微風」「無風」・・・
どの風も風に変わりは無いが、大嵐の中で帆を目一杯張れば船は暴れ沈没する。大事なのは、その風を調整する帆を操る「船主」を忘れてはいけない。その船主が帆を張ったり閉まったり、向きを変えて初めて帆掛け船として生きるのである。
このように「風」を「ご縁」と考えてみる。様々なご縁が私という「帆掛け船」を運航してくれる。しかし、その風は色々あるようにご縁にも色々あるが、無ければ進めない。それに頼りっぱなしでも沈没または座礁する。
まとめると。
1、あらゆる「ご縁(風)」によって生かされている私を知ること。※風は吹いていても時と場合によって違う。
2、「ご縁(風)」だけに頼っていると迷いの道に入る。※外側に目をむてばかりいると迷う。
3、「ご縁(風)」を生かす「心(船主)」と常に向き合うことが大事。
4、「心(船主)」が調ているからこそ、「ご縁(風)」を生かすことが出来る。
風が大切だが、その風を生かす為の自分自身の心が調っていないとまた船も生かせない。だから「あらゆるご縁に生かされていることに気付く」ことから何事も始まり、その気付いた心を生かしてこそ「無依の道人」を生かす生き方といえる。
「無依の道人」を生かすとは?
昭和、平成と長きに渡り活躍された浄土真宗の東井義雄先生のお話に次のようなエピソードがある。
ある夜遅くに電話が鳴り、取ると、、、
若い男性が力の無い声で・・・。
「先生、おれ今から死のうと思うんだけど、ナンマンダブいうたら阿弥陀さん助けてくれるんかね」
「どうして死のうと思うの?」
「家族にも、友達にも見放されてしまったんや」
「あなた、自分の左胸にぴったり手を当ててごらん。… どうです、聞こえませんか。どっ、どっと動いている心臓の音が。生きていこう、頑張っていこうという声が。それが阿弥陀さまの声なんですよ。あなたは皆から見放されたといったが、今そうして生きていこうといっている自分の身を見放そうとしているのは、あんた自身じゃないか!」
「………。あぁ、どうやら考え違いしていたようだ…」
と電話は切れたという。
自分以上に自分を生かしてくれるものに気付いた。
男性は東井先生の慈悲たる叱咤に「世間の目」というラベルをはぎ取り、自分自身に目を向けることができた。本当に依るべきものは自分自身にあったことに気付かされた。
私達の歩むこの人生という道のりは、紆余曲折、上下を繰り返し、険しく緩やかに悲喜苦楽交々だ。
しかし、その道を歩むのは、他ならぬ私しかいない。私の足でしか前には進めない。
一歩一歩、立ち止まったとしても歩みを止めなければ、心は常にその場に応じて衣を着こなす。それでも私が私であることに変わりはない。
この男性はあらゆる人とのご縁が疎ましく思うも、その人からの評価も欲しかった。しかし、実はそれ以上に自分を生かしめてくれている「ご縁」に自分と向き合うことに因って気付くことが出来た。
唯一無二の「私」がご縁だらけの中で、生かされている。そして、私も生かしている。
まさしく吉野弘さんの「生命は」の世界だ。
今日も悲喜苦楽の衣を楽しみたい。
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