「小さき思いやり」メディア論
メディアをずっと考えている。マックルハーンのメディアを出発点に、人に何かを運ぶ「乗り物」としてのメディアの意義を考えている。
マックルハーンによれば、メディアに乗せるコンテンツという見方よりも、メディアがコンテンツを形作るという抜き身の視点が大事だという。
これは目から鱗で、応用の効く概念提示ではあるけど、そこからもう一歩前に行かなければならない脅迫観念がある。
今のメディアに足りないもの。
今のメディアにあって欲しいもの。
前回の投稿のときに仮置きした言葉「目には見えない孤独をすくい上げるメディア」。
今日はそれを頭の片隅におきつつ、1日を過ごしていたんだけど、晩のTVでやっていた「若いお金持ちが財産を自慢する番組」と「旅館をリストラされたおじさんが、海外留学生が来ずに困っている農家を手伝うことを紹介する番組」を見た後、風呂に浸かりながらフーッと浮かんできた言葉が「小さき思いやり」だった。
この大変な時、1000万円する時計を羨ましがる人はそんなにいない気がする。それよりもちょっとした他人の思いやりに、心が潤うんじゃないかな。
今は大きなお金よりも、今日明日の家賃や生活費があればよく、それで一家の団欒がこれほど素晴らしいことを思い出すような時代になったんじゃないかな。
Gというメディアもそうだけど、小さき思いやりは実は誰の心のなかにもあり、それを困っている人にちょっとだけお裾分けすることで、思いやりが増えていく。
他人を陥れて、一発大きく儲けることが、どこか受け入れられている流行だった前コロナ時代。「騙された方が悪い」的なところ、あったんじゃないかな。
でも伴コロナ時代は、大きく儲けるのではなく、「ちいさき思いやり」というメディアに乗せて、お裾分けしあう贈与経済がもっと大切にされていくような気がするし、そうあって欲しいと祈っています。
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