「好き」からの逃走
まず初めに、僕の好きなものをざっと並べてみる。紅茶、パスタ、小説、詩、ゲーム、お笑い、音楽、布団、冬、温泉、ドライブ、チョコレート、麻雀、カクテル、抹茶アイス、ジブリ……。 多分まだまだたくさんあるのだけれど、書けば書くほど溢れてきそうなのでここらでやめにする。とにかく、僕にはたくさんの好きなものがあるわけだ。
僕には、と書いたけれど、きっと皆にもこれくらい好きなものがあるはずだろう。あるいは範囲が広すぎるのかな。でもまあ、好きなものはあればあるほど良い、と僕は思う。
しかし残念なことに、それら全部を、100%で愛すというのは不可能だ。100%で愛すというのは、150%の時間をかける必要があって、そうなると24時間なんかじゃとうてい追いつけない。そんなことは皆もうとっくに知っている。 じゃあどうすればいいんだろう?
厳選するしかない。限られた時間の中で、限られたお金の中で、限られた行動の中で、それぞれの好きなものの中での更なる好きなものだけを取り込む。 例えば、よし、今日はパスタが食べたいから手の込んだ美味しいパスタ料理を作ろう、だとか、よし、今日は時間があるから無数の積ん読の中から最も気になっている本を読もう、だとか、そういう「自分の欲望を最大限ぶつけられる行為」というのが、「好き」という感情に対しての完璧なアンサーだろう。 最も自分が喜ぶ状況。それははっきりとまではいかなくとも、漠然と、しかし大きく自分の中で主張してて、だからそれを実行に移せばいいだけの話なのだ。
が、できない。いや、あるいは意図的にしない。 パスタが食べたい日に限ってカレーを作るし、最果タヒの新刊が読みたい時に限って文芸誌をめくる。こういうことが起きるのだ、実際に。
2020年8月、僕が以前より好きな「ずっと真夜中でいいのに」というアーティストから、「朗らかな皮膚とて不服」というアルバムが発売された。同時にサブスクも解禁されたので、僕はアップルミュージックからすぐにでも聴くことができた。ファンであれば、好きなアーティストの新曲をいち早く聴きたいと思うのは当然であり、僕もそうだった。 しかし結論から言うと、僕がそのアルバムをちゃんと聴いたのは九月の終わりに差し掛かってからだった。 それは聴かなかったと言うより、意図的に避けていたと言った方が適切かもしれない。ドライブ中にランダム再生した僕のプレイリストからそのアルバム曲が流れてきたとき(僕は何故か曲のダウンロードだけは済ませていた)、僕はあえて聴かないようにそこだけをスキップした。
どうしてこういうことが起きるのだろう。僕は紛れもなく好きなのだ。好きという感情には人一倍敏感だと思っている。なのに避ける。大事な場面で避ける。気持ちが昂ったときに避ける。そして何にもないときに、まるで近所のコンビニに買い物にでも行くような感覚でそれを実行する。そんな愛は完璧だとは言えないだろう。
ここからはただの仮説に過ぎない。ただ僕がこうなんじゃないかと思うことを綴っていく。そこには根拠なんてものは存在しない。なんとなく、ということだ。
恐らく僕は、そういう「好き」を完璧なタイミング、コンディションで行うことに対して恐怖しているんじゃないかと思う。 「好き」に対して完璧な対応を行った場合に生じる感動、そしてその感動によってもたらされる(かもしれない)自己の変動。その一連の流れがに対して、僕は恐怖しているのではないだろうか。
それは突き詰めると「平穏で不変な生活を送りたい」という僕の深層心理から及ぶものなのかもしれない。 だからって好きなものにまで影響を与えるなんてばかばかしいと思うかもしれない。僕も思う。でもこの世にはばかばかしい出来事なんてそこら中にあって、僕たちはそんなばかばかしさから目を背けている……のかもしれない。
最初に言った通り、これはただの仮説だし、僕の妄想だ。でもやっぱり僕が「好きからの逃避」をしていることは確かだし、奇妙な違和感がそこに存在することも確かだ。せめて僕が心理学をかじっていればこの現象が理解できたかもしないけれど、今更調べるというのも、それはそれでなんだかなあといった感じだ。あれ? またこの現象出てる?
話がまとまらず申し訳ないけれど、もし同じようなことが自分の身に起きている、という人がいれば、教えていただけるととても嬉しい。 それでは、おやすみなさい。