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春樹小説における孤独な男

 こんにちは、ゲンノウンです。随分久しぶりだと思いますが、まああまり気にしないでください。

 さて、オタクというのは好きなものに対しては延々と語り続けるものですが、僕の場合、こと村上春樹については語りたいことが多すぎて、なかなかこういった形でまとめることができていませんでした。人間は選択肢が多い場合、決断に多大な労力を使ってしまうというものがありますが、それに近いかもしれません。
 そしていざこうして春樹について語ろうと決断したテーマがこれなのは、うーん、これも特に深い理由はありません。でも非常に興味深いと感じたため、(現時点では内容もオチも決めていませんが)最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 春樹小説を多く読んでいる方ならお気づきかもしれませんが、彼の小説には「孤独な男」が度々主人公として登場します(厳密には孤独とは言い切れないかもしれませんが、ここでは多義的な意味で使用します)。
 ざっと例を挙げるならば、「騎士団長殺し」の「僕」、鼠三部作(+ダンス・ダンス・ダンス)の「僕」、ワンシーンを切り取るならば(あるいは広く捉えるのであれば)「ノルウェイの森」の「ワタナベくん」も孤独と言えるでしょう。また、春樹は「女のいない男たち」という短編集を書いており、その名の通りこの短編集には様々な「女のいない男たち」について描かれています。ある者は妻を病気で失い、ある者は突然いなくなり、ある者は自らそれを遠ざけます。
 これだけの例があればやはり思うのは、春樹作品において「孤独である」あるいは「女がいない」というのはかなり重要なファクターなのでは? ということです。
 しかし実際、別れた妻やいなくなった彼女が物語を本筋から逸らすことは多々あります。また、それは一見意味のないパートのように思えますが、心情の機微をまるで水面のように映し出し、とりわけそれが主人公の意思や行動に関わってくる春樹小説においては、こういった「わき道」のようなストーリーも無視できない存在なのです。ハンバーグにかけられた少量のパセリとは訳が違うのです(こういうことを言うと、ハンバーグ信者とパセリ信者から怒られてしまいそうですが……)。
 そして純粋な読者としての率直な感想を述べるのならば、それらに出てくる「孤独な男」は実にかっこよく、キャラによっては憧れさえ抱いてしまうのです。普通、妻や恋人に逃げられた男なんてのは惨めでかっこ悪いものですが、春樹の描く男にはそれが一切感じられないのです。もちろん、そこには一種の哀愁のようなものはありますが、例えばそれによって男が「ダメ」になったり、ただの安っぽい「悲劇」で終わることは無いのです。まあ「ノルウェイの森」は若干怪しいですが、あれは意見が分かれるので……。
 とにかく、これだけ魅力的に「孤独な男」を描けるのは、村上春樹彼だけなのではと思います。彼は既婚で子供はおらず、過去に離婚経験は無いようですが、「孤独な男」というエッセンスが彼の何かを刺激しているのか、はたまた彼自身似たような経験があるのかは謎に包まれています。こればかりは本人に聞かなきゃ分かりません。しかも彼、学生結婚してるので、結構早い段階から妻がいるんですよね。うーむ……。

 ところで「村上さんちのところ」という、読者からの質問相談メールに春樹が直接返信したものをまとめた分厚い文庫本がありまして、ご存知ですかね? その中の質問の一つで、「海辺のカフカにて星野少年が立ち寄った喫茶店のマスターが言っていた『ハイドン評』が自分には無い感性で驚いた。春樹さんはそういう風にハイドンを捉えてるのですね」といった内容のものがありまして(記憶をたよりに書いているので間違っているかもしれません。ごめんなさい)、それに対する春樹の回答が「まず、小説の中の人物が言ったセリフは、その人物が思い感じたことであり、僕の意見ではありません。あくまでそれは彼(喫茶店のマスター)の意見に過ぎないのです」と答えていました。それを読んだ時、「そりゃそうだよなあ。小説のキャラクターと作者を重ねるのは失礼だよなあ」と思ったのですが、たしか(本当うろおぼえばかりですみません汗)「国境の南、太陽の西」で主人公が義父から「浮気相手の一人や二人いた方が男としての値が上がる」という旨の事を言われており、もちろん主人公はその意見に対して難色を示しましたが、読者の僕としてはそういう風に強く言い切ったセリフがあると、作者自身に重ねてしまい、彼もそう思っているのだろうか、なんて考えてしまうんですよね……。
 随分と話が逸れてしまいましたね。すみません。つまり僕が伝えたいのは春樹の描く「孤独な男」は、どういう経緯をたどって生まれるのかは謎ですが、彼にしか描けない特別なものだということです。

 「騎士団長殺し」の主人公は、妻に別れを告げられた後、愛車の「プジョー205」で一人あてもなくただ闇雲に北へと走らせ、約一か月半乗り潰し廃車にしてしまいましたが、ここまでシックな拗らせ方が他にあるでしょうか? 「プジョー」なのも良いですね。乗り心地がそこまで良いとは言えない大衆車で長旅をすることによって(またそれが愛車であることによって)生まれる”深さ”があるのです。しかし現代の男たちはどうでしょう? 恋人と別れてはうじうじ泣きながら友達に慰めてもらい、「プジョー」どころか電車ですら失恋の旅に赴かない、これじゃ春樹小説には出演できませんね。
 彼(主人公)はその後、別れた(正確にはその途中)の妻とは近づこうとはしませんが、彼女がどうして自分自身を見捨てたのか、彼女の葉書や残されたメッセージから読み取ろうと考察を重ねます。彼の現状を受け止め、そのうえで原因を考える姿勢は見習いたいところです。

 「ノルウェイの森」については、ネタバレを含みそうなのであまり多くを語りませんが、「ワタナベくん」は全編通しても女性に満ち足りているように見えて、本質的には孤独に思えます。直子のことの直後というのもありますが、ラストのシーンはなおさら彼の孤独を感じさせます。たとえ周りに想ってくれる人がいたとしても、本人次第では簡単に孤独になりえるということですね。また、同作には主人公の先輩の「永沢さん」という恐ろしくカリスマでモテる人物が出てきますが、彼も本質的には(主人公以上に)孤独で、しかも主人公とは違いそれを望んでるタイプの男と言えるでしょう。彼の名言である「自分に同情するな」は僕の心にかなり強くメッセージとして残っています。それはそうと僕は永沢さんが好きじゃありませんが……。ひどい男なのでね、彼は。


 まだまだ一つずつ詳しく例を挙げて説明したいところですが、だいぶ夜も更けてきたのでここいらで締めくくりたいと思います。
 今まで散々春樹小説の「孤独な男」に対する憧れや魅力を語ってきましたが、結局のところ、やっぱり、ひとは孤独じゃない方が幸せなんじゃないかと思います。「孤独」の深さというのも、今いる恋人や妻、夫を大切にした人だけが味わえるのではないでしょうか。しかしもし、何らかの不都合が起きて、孤独な時間がそこに現れた場合、春樹作品の男を参考にしてみるのも良いかもしれません。それでは、おやすみなさい。

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