殺人鬼自分
僕はほとんど毎日夢を見る。たいていは記憶にも残らないような、まさに夢というようなおぼろげなものだが、たまに、ごくたまに自分が死ぬ夢を見る。いわゆる悪夢。
いや、正確には死にかける夢だ。それは事故であったり、恐ろしい怪物に襲われたり。でも僕は死なない。いつも、その一歩手前で目が覚めるか、あるいは奇跡のようなもので危機を逃れるかだ。
そして目が覚めた時、今のは夢だ、僕は本当に生きているんだと確信して、無意識に、反射的に、ほっとする。僕はその瞬間が大嫌いだ。
人はいつ死ぬか分からない。それはメタファー的な警句ではなく。本当にそうなのだ。朝の通勤で事故に遭うかもしれない。突然誰かに刺されるかもしれない。急な心臓麻痺が起こるかもしれない。確率は非常に低いが、絶対に起こらないという確信は無い。でも、僕が本当に恐れている当然の死は、この中には無い。
本来、人間は死を恐れているはずだろう。何か特定の思想・宗教を持ち合わせていない限り、死=無 であるし、と同時に苦痛のイメージも持ち合わせているだろう。しかし、そんな本能を持ちながらもそれに抗い、自ら死を選ぶ人間がいる。それも、ごく少数というわけではない。
憔悴、怨恨、逃避、その理由は様々だろうが、いずれに共通しているのは「死の恐怖より、自身の中の何かが上回った」ということだろう。つまり、人間はその何かが上回った瞬間、本能よりも、意思が勝つということだ。そして僕はそれが本当に怖い。
僕だって当然死にたくはない。まだやりたいこともたくさんあるし、恋人や家族や友達と沢山の時を過ごしたい。本だって全然読み切れていない。どんな形であれ僕が死ねば誰かが悲しむし、そんなことは望んでいない。
でも、分からない。絶対に死なない、という確信が無いのだ。事故や、殺人と同じように。
「生きたい」という気持ちの中に、小さく、うっすらとその逆の感情も含まれているのを、僕は知っている。矛盾という言葉は嘘だ。
つまり僕は、僕の中にまだ影を潜めている、しかし確実に存在するそいつに、いつか本当に殺されてしまうのではないか、という気がしてならないのだ。
実をいうと、一度そいつが本気で殺しにかかってきたことがある。丁度去年のこの時期だ。どうやって生き延びたかは覚えていない。ただ多くの人を悲しませ、僕も彼らも泣いていた。あんな思いをするのは、もう嫌だ。
人はいつ死ぬかわからない。だからこそ皆安全運転を心掛けたり、人間ドックに通ったりする。僕だって同じだ。僕は僕自身を診断する必要があるし、問題があれば治療を行う。むろん普段の安全運転も心掛けている。でも、それでも、何か想定外の事故に巻き込まれたとき、ふと死の影がちらつくのだ。
殺人鬼自分。どうか神様、この僕に勇気を与えないでください。