無駄であるという価値
「大人になったら何になりたいですか?」という質問をされる度に、大人が喜ぶような回答をしていたあの頃をふと思い出し、その度になんだか惨めな気持ちになる。
幼少期の僕はきっとなりたいものなんて無かったし、何かにならなくていいと言われれば、今だって何にもなりたくない。
でも教育だとか、世論だとか、社会だとか、そういうものに揉まれて味付けされていくうちに、きっとハリボテの目標と間に合わせのジャンキーな夢なんかが自己を支配して、いつの間にか立派な(立派な?)一人の人間として今を生きてしまっている。惨めだ。ひどく。
無駄なものに強く惹かれる。着る機会の無い奇抜なTシャツ、特に美味しいとも思わないのに飲むお酒、深夜の爆食、休みの日の延々とゴロゴロする時間、ページの余白、道端に捨てられた誰かのピアス、etc......。無駄だなあ、と思いながらも、それらを愛おしく思って、それらに支えられている。
そういうものがこの世にはたくさんあって、でもやっぱり無駄なことには変わりないから、それを無駄だねって切り捨てる時もあって、それが有意義なのか無意義なのか、高価値なのか無価値なのか、そんなことを考えて生きたくなんてなかった。無駄なものを無駄なものと自覚することなんて、したくなかった。
「自分らしく生きなさい」とか無責任すぎて怖い。自分らしく生きていいんですね?と返したくなる。
自分らしく生きて、自分らしく死ねるならそれが本望だよな、と深夜のベッドに呟いて、明日になれば全て終わっていてくれと枕に願って、今日も就寝します。おやすみなさい。