仮想国Who系

 「お待たせしました。四国八十八カ所バスツアーご乗車願います。前の方に続いてゆっくりとご乗車願います。その際、乗車券を拝見いたしますので、ご用意の上お並び下さい」
 ついさっき録音したアナウンスが流れている。
 俺は差し出された乗車券を確認し、日付など問題がなければちぎって半券を手渡す。その際、客の手首に一噛み、がぶりとやるのを忘れない。まぁ、実際はぺろりと一舐めでも良いのだが、俺の唾液中に繁殖しているゾーンBウィルスが乗客に確実に感染するように、心がける。とにかくどこでも良いので付着さえすれば、表皮をくぐり真皮を抜けて、彼我の区別のつかぬ狭間で増え続けていくウィルス。それはやがて宿主を殺し、乗っ取り、そしてまた食らい続けて、いつか腐りきって土塊へと還る。
 そんな静寂な世界へと俺はこのバスを転がしてゆく。

「一日八回として、十一日。なかなかハードだけど無理な数字じゃない」
 そう思ったのは徳山丸夫、二十一歳、フリーターだ。引きこもったり漏れ出てきたり、のんべんだらりとだらだらな毎日を過ごしている。この春に東京の下の中くらいの私立大学を中退したばかり、もちろんそれについては実家に連絡を入れず、定職に就くこともなく吉祥寺あたりでぷらぷら。それなりに裕福な実家はそれなりに使い出のある仕送りを欠かさず送ってくれるので、とりあえず生活に困ることはなく、それだから自分は高等遊民であるなどと気取っていられるのだが、周りの連れは、ま、それなりのお友達なので、
「コート? ユーミン?」などと話が明後日の方へずれていく。
「て言うか、夏だし。水着で海じゃね?」
「それな」
と緊迫感の欠片もない。
 そんな水面にたゆたうペットボトルのキャップのような毎日に、さりげなくスパイシーなちょっとした変化が起きたのは深夜と早朝の狭間、ネットを飛び交う膨大な情報が穏やかな魑魅魍魎と化した頃、PCの画面に現れた『ご当地風俗』というゆらゆらとワカメのように躍る文字がきっかけではあった。はじめはおそらく地下アイドルとか地方アイドルとかをなんとなくブラウジングしていたのだ。あるいは地方のゆるキャラを眺めていたのかもしれない。いつの間にかキーワードが『ご当地』となり、2頭身3頭身のほのぼの面白キャラクターたちが、たとえば妙になまめかしいご近所の主婦といった体のソープ嬢だとか、顔立ちは百年に一人のアイドルのようだけどわりと残念5頭身のヘルス嬢だとか、壊れそうなくらい細くて闇に浮かび上がる百合の花のような風情の未工事嬢というか坊というかのキャバクラスタッフだとか、人類ならばまだしもこれは牛かなはてさて鯨と、冗談とも真面目ともつかぬものを見せられた後にたどりついたのが『四国八十八カ所御遍路風俗』のHPだった。
 その趣旨に曰く、「新元号を言祝ぐスペシャルイベント、四国四県をまたぐ大スペクタルセクシー御遍路、ルールは一つ八十八発、念入りに回るもスピードを競うも、十人十様の極楽浄土、性愛の猛者も求道の者も観音菩薩に玉手箱、割引料金ネットで配信、特別ボーナス実質無料!」、そんなわけあるまいと思いつつも、白装束の自分の姿を思い描き、
「一日八回として、十一日。なかなかハードだけど無理な数字じゃない」
と、丸夫はつぶやいた。
 何故だかすでにやる気満々なのである。

 中央にガラス製のテーブルがあり、その向こうに三人がけのソファがある。その右手奥には濃いグレーのドアが、今はかっちりと閉ざされている。左の方には窓があるのだと思われ、それはそちら側から若干の光が差してきているからそうと知れるのであるが、陽光の白々しい感じからすると昼下がりにずるっとぶら下がってるような時間帯、どんよりと淀んだような室内の空気感。白黒の画面なので、心なしか動きが緩やかに思えるが、あるいはリソースの多寡の関係でそういう中抜きの映像になっているのかもしれない。テーブルにほおづえを突いて枝毛のチェックに余念のない小太りフリフリ娘がいて、前髪辺りを指でくるくる巻いては伸ばし、時折じーっと眺めてはぷつっと引っこ抜くといった行動を繰り返している。ソファでうつぶせになり大判の雑誌をめくっているパンキッシュな服装の痩せ女、深く曲げた両膝を交互にぱたぱたと動かしては一人真夏のビーチの様な賑やかさを醸し出している。開いているページが今年の流行の水着の特集なのであながちそれも故のないことではない。どちらもチャームポイントはまず若さ、そうして若さで、若さだけ。
 六畳ほどの広さの室内、天井付近の高さの固定カメラからの映像、その俯瞰の画面からは大切な事柄も些細な物事も全てが同程度の精細さで映し出されていて、それはたとえばノイズにまみれた意味あるフレーズ、確かにそこに存在しているはずなのに認識することのかなわない何かを予感させるようでいて、その実本当に何もないのかも知れないと危惧させるほどには寒々しいカオスに充ちている。じっと注意して見つめていても、意識に上るはしから忘却の中にずり落ちていく光景。画面右下には現在時刻を表しているらしい数字が明滅しているが、時分秒その下全ての数字の並びが奇妙で、現在時刻を表しているらしいとしか言えない。たとえばコンマ一秒の単位の数字の並びが2323764900581022と続き、時刻の部分だろう二桁の数字が32、分であろう部分が84であったりもして、なるほどもしかするとそこは、その画面の中は、こことは違う時間が流れているのかも知れない。

『ノミネートする場合は十万円が必要になります。参加ボタンをクリックすると問答無用であなたのカード情報・ウェブバンク情報が参照され、直ちに送金操作が実行されます。入金確認後、ふたたびこちらの』というところまで読んで、徳山丸夫はウィンドウの閉じるボタンをクリックするが画面には何の変化もなく、『四国八十八カ所御遍路風俗』のページは残ったまま、頑固な油汚れのように居座っている。ブラウザの別のタグを選んでも切り替わらず、なんだか変なことになっちまったかなぁと、強制終了しようかと電源ボタンへ指を伸ばすタイミングで新しいメッセージが浮かび上がり、そこには『強制終了を実行すると、ノミネートが実行されます。ご注意ください』とあり、いやいや待てよそんな馬鹿なと腕組みして画面を見ていると、カーソルが勝手に動いてあちこちをクリックし、そうこうするうちに強制終了の文字がぴかぴか光るタイルボタンが画面中央に現れる。カーソルは全く躊躇せずにそれをクリックし、だから当たり前のようにPCは終了処理を始め、悪びれもせず再起動する。ああ、終わったな俺、と丸尾は思い、いや待て始まったばっかりだと思い直す。パスワードを入れユーザー画面が立ち上がるのを待つ間、モニター画面の右奥、この部屋の入り口のスチールドアへ目をやる。サムターンは水平になっている、施錠されている、安全だ。ああ、なんだか目が疲れたな目薬さしたいと思っていると、モニター上に白黒のセキュリティカメラの映像のような物が現れた。左上に黄色い文字でLIVEとあり、部屋の中央、テーブルにほおづえを突いて枝毛のチェックに余念のない小太りフリフリ娘がいて、前髪辺りを指でくるくる巻いては伸ばし、時折じーっと眺めてはぷつっと引っこ抜くといった行動を繰り返している。その奥、ソファでうつぶせになり大判の雑誌をめくっているパンキッシュな服装の痩せ女、深く曲げた両膝を交互にぱたぱたと動かしては一人真夏のビーチの様な賑やかさを醸し出している。二人ともカメラの存在など気にもとめずに、あるいは意識していることをみじんも感じさせることないプロフェッショナルさで、待ちわびルームの一コマを演じている。それを監視することをどうやら求められているのだと丸夫は理解し、それを律儀にこなし始める。

「お父様のこの幸せそうなお顔をご覧ください」と女医に言われても、とてもじゃないけど顔なんて見えなくって、だって片目だけオンラインしたゴーグルだとかヘッドホンだとか味覚刺激用のマウスピースに嗅覚抑制用の鼻マスクだとかでまるでロボットのようになっていて、どこをどう見れば幸せそうなのか、それよりこの人が父さんなの、あるいは人間用な形をした別の物だったりもしそうではっきりとしない。今更何か文句を言うつもりはないし、父さんが望んでやっていることらしいのでそれはもう仕方のないことなのだろうけど、なんだかあまりに哀れな感じがしてほかにもう少しなんとかならないものかとそんなことを考えた。身体はお笑いコントで使うような肉襦袢に覆われていて、そのあちこちにチューブだのケーブルだのが接続されている。その相手はタンクだったり山積みされた機械類だったりして、時折何かの排気音がしたりパイロットインジケーターが明滅したり、何かが起きているのだけどそれがなんなのかが僕には分からないということだけが分かった気になった。父さんの股間には多分高性能オナホールがあてがわれている。それが今動作していないことを僕は願った。父親のそういうシーンを見て傷つく年齢などとうに過ぎてても、見なくてすむ物なら見たくはない。
「では、今からお父様の世界を確認していただきます。あちらのモニターにお父様の見てらっしゃる光景が映ります。正確には視覚と脳内補正の後の映像との混交した物ですので、本来見えるはずのないご自身の後姿なども見えますが、バグではございませんのでご了承ください。ご希望の設定が二十代前半で故郷を旅するということですので、風景なども現在とは相違する可能性が考えられます。後、ストーリーの組み立ては基本的には患者さんご自身の想像力に左右されますので、難解だとかつまらないだとか物語の出来不出来につきましては当院の責任の及ぶ範囲ではございません」示された壁掛けの画面が明るくなって、路線バスの車内のような絵が見えてきて、運転手さんが右側にいて左前方の乗車口から白装束の人たちが乗り込んでくるのが分かる。「お待たせしました。四国八十八カ所バスツアーご乗車願います。前の方に続いてゆっくりとご乗車願います。その際、乗車券を拝見いたしますので、ご用意の上お並び下さい」
と音声が聞こえ、それが父さんの声によく似ていて、
「これ、どうしても見なきゃいけないんですか?」嫌な予感に囚われて尋ねても帰ってくるのはまるであらかじめ録音されているかのような揺るぎなく迷いなく情けない返答。
「ご希望ですから」
と、女医は言った。

 右手奥の濃いグレーのドアがこじ開けられるのが分かる。音声のないモノクロの画面の中での出来事は琥珀の中に囚われた虫の動きのようにゆっくりとそして確実に逃げることが許されない。ドアは吊り元側から引きちぎられる。どれほどの力が加えられたのか、枠はへしゃげ、それを溶接していた鉄筋が大きく現れるほどねじ曲がっている。小太りフリフリ娘が髪の毛をくるくる巻いたままそちらを振り向き、パンキッシュ痩せ女は雑誌を投げ出し飛び起きた。壊れたドアにはうっすらと土埃など立ち、その破壊の凄まじさを物語り、そしてその向こう、徐々に姿を現してくるのが白装束に菅笠、金剛杖を突いたお遍路支度の人々。その歩みが尋常ではなく、とてつもない激痛を押しての一歩一歩といった風情、いわゆるゾンビ・ウォークでやってくる。見れば衣のあちこちにべったりとなすりついた血糊のような黒い染み、己の物か餌食の物か判然ともしない血みどろの饗宴、モノクロの画面はより豊かに想像をかき立て見ている此方を放さない、オー、ビバ、ロメロ。泣き叫ぶフリフリ娘と痩せ女、逃げるところはない。ドアだった残骸をくぐり抜けてくる無数のお遍路ゾンビ、画面左の窓の方に追い詰められる娘たち。はっと驚く二人の顔、(聞こえないけど)バリンッとガラスの割れる音、突き出され、たぐり寄せるようにうごめく無数のゾンビの腕。抱き合い、へなへなとしゃがみ込む二人、その姿が群がる白装束に覆われ、見えなくなっていく。フリフリ娘の腕など一本高く掲げても良い、しばらく宙をひっかくような動きなどあり、やがて微動だにしなくなる。やがてその腕さらに高く突き出され、よくよく見ればゾンビに引きちぎられたその根元には、二三のゾンビがむしゃぶりついている。聞こえない咀嚼音が部屋の中に充満する。画面左上の黄色いLIVEの文字だけが我関せずと灯っている。

 どうやらこれは、想像しているのとは違うことが起きているのかもと、今更のように丸夫は思った。客待ちしている風俗嬢の控え室のような部屋を覗き見している、そんな役目を押しつけられたのだと思っていた、こんなB級C級ホラーのようなゾンビにまつわるあれこれを見せられるのなんて予想していなかった。画面では、ようやく一体のゾンビが娘の腕を独り占めし、満足そうな無表情でカメラの方を向いた頃、カチリと音がして、入り口のドアのサムターンが回った。そちらに目をやった途端、視界の隅、PCのモニターを突き抜けて飛び出してくる物体を感じた。丸夫の左眼窩に深々と突き刺さり、その中指の先が後頭部を爆裂させるほどの勢いで飛来した娘の腕、その断面から伸びた血管だの神経だのの名残がモニター内部へと続いている。

 その指先は僕の物。毎晩のように僕を壊し続けた父さんにたった一度突き付けた渾身の一撃。
「殺してください」
僕は言った。多分それが父さんの願いだと思ったからだ。
「このままずっと、この夢の中で殺し続けてください」
 その部屋にはもはや誰もいなくて、僕の願いもしばらく宙に漂い、やがてひっそりとどこか遠くへ消えていった。

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