仔猫とチョコと陽だまりと

 饐えた臭い、ひどい喉の渇き、口元にこびりついてる吐瀉物、痛み、身体中に残る鈍い痛み、目脂かあるいは固まった血か、目蓋を塗り固めたものをゆっくりと剥ぎ落としながら、記憶の向こうを透かして見ようとするが、白っぽい無慈悲な光の眩しさが、俺から世界の姿を奪っている。右腕で上体を起こし、ぼろ人形のように座り込む。首元が涼しい。スヌードが奪われている。項窩に敷設しているカプラー周辺を触るとぬるりとした感触がある。じわじわと出血しているようだ。

 妻と子を連れて車で出かけ、そして無意味な事故に巻き込まれた。レースの真似事をして走行する黄色い車が横転し、後続車がそれに次々と衝突する。どうにも避けきれず、俺の車もその混乱の中に突っ込む。
 俺は左手をなくした。妻と子供は時間をなくした。俺のほとんどがそこで終わった。ずいぶん昔のことだ。

 視界に影が刺してしばらくして、ようやくそれが誰かの足だと言うことに思い当たる。甘ったるい煙草の臭いがする、苛立った怒りのような臭いもする。それに呼応するように俺のなけなしの怒りがキャンドルの炎のように立ち揺らぐ。
「スヌード返せよ、ロニー」
 乾き切った喉から、俺は何とか掠れた言葉を捻り出す。
「もう、あんたにゃ必要ないだろ」
 男が憐れむように、優しく囁く。一瞬、何もかもすべてを理解できたような気がしたが、すぐにまた、全ての光を失う。ここじゃこんなもんだ、相棒。何一つうまくいかない。お前はどうだ?

 ホーム、アンバー色の照明の満ちた自室内、。オレはログインアイテムのベッドから飛び起きる。おんぼろマンションのプライバシーエリアを抜けると、ギラギラとまぶしい刺激的な世界がごろんと俺の前に体を横たえる。あなたのテクで好きにして。世界がそう言って微笑みかける。
 ハロー、真理界。おまえこそが世界だ。純粋な欲望と知恵と勇気があれば何でも実現可能なパラダイス。夢のような額のチャージを稼ぐことだって可能だ。

 差出人不明の荷物をなぜ受け取ったのか、今となっては俺にも理解できない。
 部屋まで何とか担ぎ込み、梱包を解いてみると、中から現れたのは全裸の幼女だった。
 目があっても何の反応もない。ほんの少し伸びをすると、窓の側の陽だまりの中で膝を抱え、うつらうつらと眠り始めた。

「何だかきな臭いことが起きてるらしい」と、ロニーのアイコンが言った。「そいつらに捕まると、真理界でも物理界でも存在できなくなる」
「抜け殻か?」、オレは尋ねた。そして、ちょっとだけあんたのことを考えたよ、スヌードを被ってベッドに横たわってるあんたの姿を。オレのオリジナル。物理界のアンカー。
「ああ、中身が吸い尽くされてる、ミイラみたいにな」
 ニヤニヤ顔のアイコンでロニーは続ける。
「どの方面も手出しはしない。つまりおまえを邪魔する奴は誰もいないということだ」
「そんなに厄介な案件なのか?」
「チャージした。確認してみろよ」
 半信半疑でバンクラインを開くと見たこともない巨大な数字が増えている。
「あと半分は成功報酬だ。やれるか?」
「もちろんだ。で、そいつらってのは?」
「微人とかいう化け物だ」

 妻と子供の死に顔はきれいだった。ひしゃげた車体に挟まれて身体の方はミンチになっていた。俺は車を抜け出し、先頭でひっくり返っている黄色いクーペから運転手を引きずり出した。顔面は血で覆われていて朦朧としている。その顔面を俺は何度も蹴りつけた。何度も何度も蹴りつけた。バランスが取れない、力が入らない、そう思ってふと見ると肩口から左手がなくなっていた。道理でな、と妙に納得した時、背後で車が爆発した。俺のおかげで命拾いした運転手、それがロニーだった。

 スヌード型の融入デバイスを被り、あんたはこの真理界にオレを造った。オレはあんたのアバターで、あんたはオレのマスターだった。
 まだここがこれほどギラギラしてなかった頃のことだ、誰もがここをただのゲーム空間だと思っていた頃。ロニーは創設者の一族でだからあんたはその伝手で高価な機材を使ってここに没入するようになった。
 真理界には真理界のルールがある。アバターを自立させないというのもその一つだ。あんたはそれを破り、世界をオレに投げ与えた。オレは一人でここを味わい、楽しみ、そしてあんたよりもずっとうまくこの世界に馴染んでゆく。
 ベッドに横たわっているあんたの姿を見ている。そのそばにくっついているガキの姿も見えている。物理界の存在であるロニーには分からないらしい、巷で微人と呼ばれている存在。俺からの贈り物、意識を喰らうだけの単純なデーモン。

 記憶が少しずつはげ落ちて行っているのが分かる。感情も痛みも、激しい思いは薄れて、甘いチョコレートのような香りに包まれている。幼女と目が合う。仔猫のように笑う。俺も笑った。

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