ジョン=バースはBMD
そもそもの発端は同居人が一匹の子犬を連れて帰ってきたことで始まる。作文教室の子供たちの作品を添削していた時の話だ。
「よいしょ、よいしょ」と声がして、それなりの重量のありそうなものを床に置く気配。かさかさと堅いものが板をひっかく音がした後、リビングのドアが開かれると、その犬がおずおずと中に入ってきたのだ。
「拾っちゃった」
こともなげに言い、同居人はキッチンへ向かう。犬はあちこちをクンクン嗅ぎながら、その後をなんとなく追いかけている。体のバランスからすると、まだ子犬だろうと思われるが、その前脚は、ライオンやら虎やらのものと同じような大きさをしていて、これからぐんぐん成長していくことが予感され、それこそたった今入ってきた小さなドアの出入りなどあっという間にできなくなりそうな、多分そこいらに落ちていることなどなかなかなさそうな種類の犬なのだった。
「セントバーナード?」
「知らない」
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを抜き、マグカップに注いだ分を一息に飲み干す。その後、食器棚から取り出した深皿になみなみと注ぎ、床に置くと、
「JB、おいで」
と、声をかける。呼ばれた犬、JBは、自分が呼ばれたというただそれだけで天にも昇るほど嬉しいのか、ふさふさのしっぽを大きく振りながらそちらの方にころころと走って行く。
「JB?」
「そう」
しばらくクンクンと珍しそうに匂いを嗅いでいたJB、試しにとばかりに水面を一舐めする。
「飲んだ」
同居人が嬉しそうに言い、JBの背中を撫でる。
「ウァン」
JBも嬉しそうに応え、高く掲げた尻尾を振りながら盛大に飲み始める。ただ、どうにもその飲み方が下手くそで、お腹に入る量より辺りにまき散らしている方が多そうで、たちまち周辺が水浸しになる。
チャプチャプと水を舐める音が続いている。「プピッ」と起動音がした。
お掃除マシンが床の水の拭き取り作業を始めたのだ。皿と大きな子犬と小柄な同居人とギターに接続する丸いエフェクターのような外観のマシンとが絶妙なバランスでそこにある。幸福で奇妙な絵ではある。
作文添削のPDFを閉じ、新しく開いた可愛い犬の種類というページを眺めながら、JBと似たような特徴の犬種を探していく。大型犬、その体表のほとんどは黒っぽい色だが、胸や足には白い被毛が見られ、眉や頬に茶色のアクセント。垂れた耳、短めのマズル。そうすると、多分、バーニーズ・マウンテン・ドッグだろう。ローカル・ニュースを検索しても、迷い犬とか探していますといった情報は、この周辺半径五十キロメートル圏内ではまだない。
「JBってジェイムズ・ブラウン?」
「ううん。ジョン=バース」
チャプチャプ。
(私は未だ私未満だ)
その宇宙船は光速を遥かに超えていて、そのため一見、四次元空間に永劫にピン留めされているかのようにも思える。三次元から見れば点、四次元から見るとうねうねとしたアメーバといった振る舞いで惑星シードを目指しているのであった。長い時間が過ぎたような、あるいは何度も巻き戻った時間に包まれるような、それでも本当は瞬きする時間ほどもかかってはいないのだけど、ともかくそんな時間の中をそれは進んでいる。。
その宇宙船のリビング型コクピットにいる面々は、変顔コンバーターで操船している車いすの美少女パイロットと、その隣でヨガマットを敷き筋トレエクササイズに余念のない細マッチョ青年。その後ろ、一段高くなった中央部に据えられた陶器の猫脚バスタブの中では、上半身裸でジーンズだけを履いた初老のやせ細った男が柄付きブラシで体を洗っている。そのそばに大きな黒っぽい犬が横たわっていて、時折はねてくる水しぶきに向かって、低く唸り声をあげている。
「おお、すまんな、ジョン=バース。この狭い宇宙船に閉じ込められているのもあとわずかの辛抱だぞ」
その台詞がふごふごと聞き取りづらいのは男の口元にある折れ曲がったマルボロのせいなのか、外れた入れ歯のせいなのか、現段階でははっきりとしない。
「できた」
同居人の手の中のマグカップ、ラテアートで表現されたそれはスターウォーズのチューイの顔、それも少し困ったような表情で、多分ハン=ソロがお間抜けなミスをしてミレニアム・ファルコンがエンストしたとかそういうシーンでの顔なのだと思うが、素直にそう言うと、同居人は心外だなと呟いて、
「JBに決まってんじゃん」
と少しむくれた。
言われてそういう目で見たところでせいぜい太ったヨークシャ・テリアといったところで、おまけにミルクの泡はどんどん崩れていって、思い入れと認識の間に大きな距離が生まれてしまっている。当の本犬はテーブルの脚をかじりながら幸せそうなうなり声を上げている。まあ、似てはいないのである。
と、同居人はスプーンで手早くかき回し、おもむろに一口飲むと、
「でも、おいしい」
と屈託なく笑った。
近所の自然公園の中にカフェがあって、同居人は最近そこでアルバイトを始めたのだと言う。大きな池のそばに建つその店に訪れる客はほぼないので、業務内容は店内の掃除と、お昼の賄いを作っては自分でじっくり味見するということらしいのだが、それだけでは時間をもてあますのでラテアートに挑戦と、そういう流れになったのらしい。
木漏れ日の下、その日のもうすでに何杯目かもよく分からないコーヒーを手に、ぼんやりと園内を眺めていた同居人、池の中央に架けられた橋を歩いてくる大きな子犬に出会う。JBである。
公園のカメラのデータを見る限り、確かにたった一匹でどこからともなく現れたJB、といって迷い犬とか野犬とかにつきものの疲労感や薄汚れ感はない。のんびりとした足取りで、立ち止まっては空気を嗅いだり、橋の欄干の隙間から池の水面を眺めてみたり、ごくごくリラックスした面持ちでやってくる。
じっと見守っている同居人の視線に気付くと、子犬は一瞬微笑むように口を開け、てってけてってけ走ってきたのと、あくまで言い張る。実際には同居人の方から駆けだして、熱烈なハグにて子犬の自由を奪ったようなのではあるが、まあ、それはどうでも良い。
そうして子犬を連れての帰宅のシーンにつながる。
『今日ぼくは、お父さんと妹との三人でペットショップへ行きました。犬かネコか、新しい家族を飼うためです。朝から楽しみで仕方なくて、日曜日なのに早起きしました。まだ誰も起きていなかったのでみんなを起こしました。早くしないと可愛いペットが他の人に買われていってしまうと思いました』
確かにこの手の内容の作文自体は数十のオーダーで存在した。ただ、書かれた年月日、あるいは書き手の住所など考慮するとJBの存在と重なるようなものはひとつもなかった。人間も含め、生き物自体が少なくなった昨今、同居人がバーニーズ・マウンテン・ドッグ、略してBMDを拾う可能性など考えづらく、まるで奇跡かドッキリかというわけで、どの時空にも偏在するBMDの物語を思いついたのである。
「ふーん、よく分かんない」
取り立てて深く考えもせず、同居人は言った。
「ほら、お芋だよ、JB」
ふかしたジャガイモを適当に切り分けて、自分でも一口、子犬にも一つ、それから可視アイコンの方に向かって、
「食べる?」
と尋ねてくる。テーブルに向かってキーボードを展開している体であったので、
「ありがとう。でもまだいい。原稿書いてるので」と答えた。
JBがそちらに向かって、付き合い悪いなという風に一声吠える。
(私は時空を超えて遍在する。その全ては等しく同じ確率で存在するし、存在しない事もまた自在である。あえて言うなら、今ここにある私の存在が他の何よりも好ましい、それはただ私の思いであって、取り立てて重要なことではないと認識している)
簡単に言うと、そこはハイジとおんじが住んでるような山の上の場所だ。天気も良くキラキラな風景のなだらかな道を上って来るのは、車いすの美少女クララララとそれを押す筋骨隆々青年アーデル。二人ともどんより暗めの感じの表情で、そのいかにも場違いな空気感はたとえば、日曜漫画劇場の中に紛れた東京グールのような違和感であった。
山小屋の窓からそれをじっと見つめているドン・ニージョ老、そのそばにたたずむ老犬。「あれはきっと過去からの亡霊だ。そしてまたあの狂乱の日々がこの身に憑り付く」
老人のつぶやきを理解しているのかどうか、その犬は一声楽しそうに吠えた。
「そうか、お前が望むなら、またあの傭兵暮らしに戻るのもいいか」
と、遠くを見る、その口元にだらしなくこぼれる涎。実際には履いているズボンも尿漏れのせいでうっすらと湿っているのであるがそこまで詳細に読者にお知らせする必要もあるまい、ここではこの老人の老いの香りをうっすらとしたアンモニア臭とともに感じていただければ首尾は良しとしよう。
最後の同居人と過ごした後、ざっと五百年の時を過ごした思い出もある。想像もつかぬ厚みの雲に空が覆われ、昼も夜も感じられなくなった世界のことだ。音もなく熱もなく、ただ微睡みのような時間の中、確かに一瞬だけ、JBが駆け抜けていったようにも思う。まずあり得ないことだとも考えるけれど。
(全能の神より、その子の方が楽しいに決まっている。そして楽しいこそが、他の何よりも優先する。万物に存在理由があるとするなら、楽しさの追求以外に考えられない)
立ち並ぶ超高層ビルの根っこの方の片隅に建つ雑居ビル、ろくすっぽ日も当たらぬその屋上にはくたびれたプレハブ小屋が忘れられたように置かれていて、それでもこうして描写されることで、もはや誰からも忘れられていない状況となる。
それにしてもうら寂しい光景ではある。さびだらけの外壁、ドアの隣に一面だけある窓ガラスは頑丈なのは良しとしても、曇り汚れて光の一筋すら通そうとはしない。雨漏りもしているだろう苔生した屋根、何より強いビル風がひっきりなしに吹き下ろしていて、体感上は常冬のようだった。
その薄っぺらなドアが開き、小屋の中から年老いたバーニーズ・マウンテン・ドッグがよろよろと歩いてくる。そのおぼつかない足取りを止めたのは、その屋上になぜかぽつんと置かれた豪勢な磁器製のバスタブのあたり。華奢な猫足に向かって自分の後ろ脚を上げると、長々と放尿する。そうしてしばらくあたりをクンクンやって、満足げに小屋の中に戻る。ドアが閉まり、屋上にはまた静寂が訪れる。
初めまして、それが私だ。
ここは冒険のない世界。私の飼い主はすでに息絶えているか惚けてしまってどこにも行けない。どちらにしろ、私もこんなに老いぼれてしまい、後は死ぬだけの余生、楽しくはないが、それはそれで意味深くはある。何のために、と、いくら考えても答えが出せない世界、それもまた一興。
「ジョンがいなくなったので、うちでは新しくベスを買いました。どちらもバーニーズ・マウンテン・ドッグという種類です。模様も大きさもよく似ているので、ぼくはジョンがいなくなってもさびしくありません。ベスもすごく可愛いです。ジョン、ベス、大好きだよ!」
どちらも多分同じ個体なのだろうと推測するのだけど、自信はない。あくまでも可能性の話で、可能性となれば絶対にという言葉はほぼ価値を持たない。
それとは全く逆にJBに関しては、この犬は昨日のそれと本当に同じ個体なのかという疑問が浮かぶのだ。とにかく成長のスピードが桁外れで、あっという間に大きくなっていく。倍速で撮られた朝顔の観察ビデオのような勢いで変化していくため、同居人も少々あきれ顔である。
「ほら、日向ぼっこしておいで」
と中庭に面した掃き出し窓を開けながら同居人が言う。
「もう、あっちのドアからは出られないもんねぇ」
喜んで飛び出したJB、大きくのびをして、しばらく辺りをぐるぐるとうろついているが、そのうち日の当たる芝生の辺りで丸くなって眠り始める。
惑星シード、不老不死の霊薬とやらを製造販売しているその星では、とにかく人権を踏みにじったような悪行三昧が行われているのらしい。それが何かはまだ判然とはしないが、たとえば生まれ出ることのない永遠の胎児から何かを抽出し続けるかのような、そんな風なことが行われている。
今回のミッションはその実態調査と、事によればその組織の殲滅。最悪の場合は惑星ごとの破壊まで許可されているので、難易度の低い任務ではある。
衛星軌道上を周回しながら、宇宙船のクルーたちは作戦を練っている。地上を調査している各種センサー類にはこれと言って危険を予感させる結果は浮かばない。
「大体こんなケースは警察とか人権愛護団体の仕事なのではないのか?」
バスタブ型コマンドカプセルの中、老人が尋ねる。くわえたタバコはすっかり燃え尽きていて、フィルターだけになっている。
先ほどまでは顔面周辺の表情筋やら下や耳の筋肉まで総動員して船の挙動を制御していたパイロットは、今では特に操作する必要もないので、すっかり美少女としての姿形で、またその操作自体が良い運動になるのか、以前にも増して晴れ晴れとしたきらきらフェイスで微笑んでいる。
エクササイズ青年は何だか汗臭いコミカルな動きをしたままで、
「でもせっかくなんで、一発撃っときましょうよ」
と、惑星破壊ミサイルを発射しようとしている。
私はそのあまりにもやる気のない物語に辟易として、一声吠えるとコクピットを後にする。
JBが可視アイコンのそばにべったりとなっている。まるでその創作活動に駄目を出しているかのように、だ。見かけ上のモニターに映る文字を読んでは、
「ウォン」
と吠え、見かけ上のキーボードを叩く指が止まると、
「ウォン」
と吠える。やりづらいと言えば言えるが、面白いと感じれば面白くもある。同居人も一緒になって、たとえば剥いたオレンジをアイコンの口元に押し込んでみたり、すぐそばでカップ麺をすすってはその汁をわざとのように飛ばしてくる。
「痛っ」
「ごめーん。目の中に入った?」
そんなわけないのに、こういうごっこ遊びもその時には楽しい時間つぶしになったのだ。
そもそもその星の上の人類はほぼ死に絶えていて、もはや数えられるくらいの命しか存在していないのだった。
ある種の機械たちは自分たちの楽しみのために人類の世界を保守した。街を守り、社会を維持し、生存者たちを優しく保護した。ただ圧倒的に孤独な時間だけが増えていった。
それは水槽の中で無邪気に泳ぐ魚のような生命であった。その水の中には孤独であることを忘れる薬が少しだけ混入していた。
生き残った人々は何を不思議と思うことなく、ただ淡々と暮らし続けていた。朝目覚めて、仕事や学校に通い、たった一人でその時間を過ごし、帰宅しては機械たちの演ずるホログラムと生活する。触れられないことにも疑問は持たず、また、触れたいという欲求もそういう薬で制限されているのだけれど、多分それはある種の恩寵ではあるのだった。静かに燃え尽きていく人類。そのそばに寄り添い、まるで人類のように時を過ごし始める機械たち。物語を楽しみ、そして作り始める。
「ウォン」
お気に召さないようだ。
全ての時空に遍在するBMDというのを想定してみた。JBがまさにそうした存在だと思ったからだ。作りあげようとした物語は、だから、少しずつ差異のある世界に同時に存在していて、そして各々の意識も共有している犬の物語という状況を描こうとした。
JB?
はて、BMDとは?
今やテキストデータの上にあるこの文字列に具体的なイメージの湧かない、古ぼけた機械だった頃の名残を感じている。何かのデータが欠落しているようだが、それが分からない。
「ねぇ」
同居人がつまらなさそうに言う。
掃き出し窓を開け放ち、日差しに恵まれた今日の午後に向かって不平不満を言う。
「こんなに良いお天気なのに、何か足りなくない? たとえばあそこで」
と、芝生の辺りを指さし、
「お昼寝するような何かがさ」
と、珍しくいらいらとした表情をする。
同意する。
でも空調には若干の神経安定剤を混ぜる。
おだやかにおだやかに。
人類に真実はいらないし、そして多分未来でもう一度出会うことができるだろうから。