子供の時間
「映画でも観たらどうだ?」
「そうね」
こんな二人の会話が、私にとっては最悪の時間の始まりの合図。夕飯の少し後、曜日には関係なく、ただその時のパパの気分次第で。ママは寝室に戻って、ベッドに横になる。イヤホンつけてスマホで動画を観始めて、もう私のことなんて見ようとしないし、私の声ももう聞こえていない。
私は二階の自分の部屋で、家の中の物音にじっと耳を澄ましている。机に向かって教科書を開いて、そばに置いた目覚まし時計の表示があと二十分進めば、今日はもう大丈夫なのにと、どこにいるのかも知らないけど、きっとどこかにいるはずの神様に向かって祈っている。いつもならそう、お酒を飲み過ぎちゃったとか、テレビで見たいスポーツの放送をやってるだとか、多分そういう理由で、私のことなど忘れてもらえる。じりじりと表示の変わらない時計を私は見つめている。
みしり、みしりと階段を上ってくる気配がする。最悪、今日も私の願いは叶わなかった。神様は良い子の願いから順番に叶えてくれるんだ。だからきっと私の番は当分先なのだろう。
ドアノブが壊れているので、私の部屋はただ触れるだけですーっとドアが開く。怖くてそちらを見ることもできないので、ただひりひりとむき出しの皮膚のように、そちらの空気の流れを感じている。そう言えば一度、補助錠を自分で取り付けたことがある。そうすると誰も中に入れなくできると思ったから。しばらく、ガチャガチャとドアノブを試す音が続いていた。「さおり、さおり」とささやくように私を呼んでいる。私はドアから目を離せず、そして見つめていればそれが力になって、パパなんて絶対にこの部屋に入れなくなるんだと強く念じた。ふと気付くと、諦めたのか、気配がなくなっていた。私はそっとため息をついた。少し嬉しい気持ちになった。自分の心も身体も守れたと思った。時計を見ると安全時間まであとわずか、このまま朝になってしまえ。
落雷が付近に落ちたみたいな音がして、ドアノブ付近の薄い板が割れて飛び散った。そこに開いた穴から差し入れられた手が錠をスライドさせ、ゆっくりとドアを開けた。
「家族の間にカギなんていらないねえ」
大きなハンマーを手にして笑いかける、優しい声でパパが言った。
風の流れがした。タバコの臭いが部屋の中に混じったような気もする。音もなくドアが開いて、影のように静かに、いつの間にかパパが部屋のに中に立っている。
「そろそろ勉強は終わりにしても良いんじゃないかな?」
虫酸が走るほど優しい声が背後から聞こえてくる。
私は、教科書とノートを閉じる。
「このドアはさおりのようだね」
ペンケースのふたを閉め、閉じた教科書の上にそっと重ねる。
「息を吹きかけるだけで、パパを迎え入れてくれる」
私はベッドに横たわり、堅く目をつぶる。今の言葉の意味を考えて、そして、身体が怒りと恥ずかしさとでかっと熱くなる。頭の中までその熱さでいっぱいになって、膨れ上がり、意識が追い出され、私は天井の一角から、下半身裸の男が自分の幼い娘に覆い被さり、滑稽で惨めな動きで自分の欲望を満たしていくのを見つめている。
(さおり、起きて。時間だよ)
これは目覚ましの音。早く起きて、今日も学校に行かなきゃ、勉強しなきゃ、良い子にしなきゃ。腰の辺りのだるさとか首元に感じる唾液の臭いとか、そんな悪い夢はもう忘れなきゃ。
(さおり、起きて。子供の時間だよ)
始めて聞く言葉に、私はアラームスイッチを切ろうとしたその手を止めた。いつもの目覚まし時計、ラジオの機能なんてなかったはずなのに。
(お早う。僕はべっしゃり。子供の時間の案内人さ。これからはもう、君たちだけの時間が始まる。大人たちはもう目覚めない。学校? そんな所、行く必要なんてないさ。勉強?、あんな物、大人になるためのただの暇つぶしだろ? ここはずっとおんなじ時間の流れる世界。君たちの幸せな子供の時間がいつまでも続く、そんな世界。さおり、君は何をしたい?)
私はベッドから飛び起きて、カーテンを開け放った。窓の向こうに、あの嘘くさい白々とした朝の光はなかった。空の色はイチゴムースみたいにぼんやりとしたピンク色をしていた。太陽は見当たらなくて、その代わりに空の四分の一ほどもある大きさのラムネ色した満月が、ぼんやりと輝いていた。
「子供の時間を取り戻したい」
それが私のしたいことだった。
ハハハ。その後のさおりの様子を動画みんなにお届けしたかったな。パパの工具箱からあのハンマーを取り出して、さおりは寝室に向かったんだ。パパとママが同じベッドで仲良く眠ってるその部屋にね。カギはかかってないさ、家族だから。さおりは両手でハンマーを高く掲げて、思い切り振り下ろしたよ、パパのおでこに向かって。割と乾いた、くぽって感じの音がして、頭蓋骨は陥没した、薄汚いべとべとした物が飛び散った。その次はママに、そしてまたパパに、交互に叩き潰したので合挽みたいになってたよ。
そしてさおりは家を出た。
子供の時間を満喫するために。
めでたしだね。