徳島が宙に飛ぶ
01、書斎の様子
部屋のドアの前に、老犬が寝そべっている。猫より少し大きいほどの小型犬で、伸ばした前脚に顔をうずめるようにして眠っている。
その扉の向こう、厚いカーテンのせいで薄暗い室内、壁という壁には天井まで届く本棚、その中にはとにかく無造作に詰め込まれたおびただしい量の書物。片隅の書き物机に男の丸めた後ろ姿が見える。モニター画面がうっすらと輝いており、縦書きのエディターソフトが起動しているのが分かる。複数行文字が書き込まれていて、プロンプトがゆっくりと明滅している。最後の文字列は『電子の海に徳島が浮かび上がる』
男は机の上に突っ伏している。ピクリとも動かない。眠っているわけではない。
犬の耳がぴくりと動き、ゆっくりと頭をもたげる。
インターホンが鳴る。それに応えるものはない。
犬が玄関の方へと歩き出す。後ろ脚の力が衰えているのか、少しよろめきながら女主人を出迎えに行く。途中、ドアの方を振り返り、耳を澄ましてみるが、主人の立てる音は聞こえない。その部屋に音を立てる者はもういない。病のあったその心臓は、もう動いてはいない。
02、前回までのあらすじ
始まりは地方文学賞だった。Twitter上で何となく交流するようになったマキオ、竹鰻、ふきげんの三人が大した理由もなく、阿波鳴門の坩堝文学賞に応募しようという話で盛り上がる。
四百字詰め原稿用紙で十五枚、特に内容に縛りはないが、徳島ゆかりの地域や文化、歴史、産業、人物などを作中に登場させなければならない。
「ルパンが徳島を盗むのだ」
マキオが静かに宣言する(Twitterだけど)。
「そうしようそうしよう!」
ふきげんが無責任に同意する。
「わしはもう出しちゃったから、参加しません」
と、竹鰻。
何だか面白そうだからとWeb上のヴァーチャル徳島を覗いて見ようと約束する三人。
03、ヴァーチャル徳島
来たぜ、徳島、やっほっほい。
そうは言っても、まあヴァーチャルだけどね。
Web徳島観光のトップページからリアルマップへ進むと、どーんと開ける鳴門の大渦。白く波立つ渦の部分とそのすぐそばの緑色した海の色、周りの海は深い紺色で、それが呼応しあっていて、まるで何か語らっているかのよう。そんな光景をはじめはこうして橋の上から見ているのだけど、ぐりぐりっと画面を動かしていくと、僕の視点は海の上、ちっさなドローンにでもなった気分で、海面すれすれの高さでうず潮の波の飛沫さえ感じながら、徳島の地へ降り立ったのだ、仮想だけど。
阿波坩堝書くのにさすがに何も調べないというわけにはいかなくて、ググって最初にヒットしたのがここWeb徳島観光、めんそーれ徳島、壮大な自然の洗濯機と言うか巨人にふれられる巨大なタッチセンサーみたいな海のスペクタクルのあと、さて次はどこを見学しようかとウェイティングスペースでアバター晒してたら(僕のは標準の棒人間タイプに頭だけ愛犬の顔を乗っけたやつ。なんかエジプトの神様っぽい)、
「ふきげんさん?」
と、テキストベースで声を掛けられた。
「ん?」
と、Twitterに呟いて、それから相手を確認すると、竹鰻さん、いつものロボのアイコンなのに平面的なアバターにしているので、横から見ると栄養不良のチンアナゴみたいで、だからすぐには気付かなかった。
「ですですどうもこんにちは」
こちらも文字で返事を返す。シャイな僕らのいつものコミュニケーションの取り方。
「凄いねうず潮、よくできてる」
「そのアバター、実に竹鰻さんらしい」
「自分らしくあることは結局世界をより緻密に形作ることだから」」
言ってる間もくるくる回る竹鰻さん、ローラーで延ばされた猫のアニメのワンシーンみたいにぺろっぺろ。
あ、猫と言えば、
「マキオ君どこ?」
とTwitterに書き込む。待つことしばし、
「ここ」というメッセージとともになんだか素っ頓狂な風景の画像が送られてくる。
「おかしい。道がなくなった」
どうやら道に迷ったのらしい。
「先に行くね」
返事して、さて次はどこのスポットにしようかと考える隣ではぺろっぺロボがくねくねしながら回っている。スペースにはぽつりぽつりとほかのアバターが登場し始めていて、見たことのあるようなのもないのも、あー多分創作系の人が多いのかなと思いつつ、僕らは次の剣山へと跳ぶ。一瞬、その途中の光景はあるのかなと考えた。
作られていない細部にこそ真実は宿るのだから。
なんてね。
04、妻が出かける
「ちゃんとご飯食べてね」
と妻が言う。私は本のページをめくりながらもごもごと了解の返事をする。子供扱いをすることもなかろうにとは思うが、心当たりがないわけでもないので特に反論するつもりもない。妻が二泊三日娘夫婦と温泉旅行に行くその間、私は私の面倒と愛犬の散歩・餌やりをこなせばいい。シンプルで間違えようがないと思うのだけど、彼女にはそうは思えないのか?
「今晩のおかずは鍋にしたから。温めるだけ、ご飯は夕方に炊けるようにタイマーしといた。沢山余ったら、ずっと保温じゃなくって、器に移して、できれば冷凍しといて欲しいんだけど、分かる?」
ラップに小分けして冷凍されているご飯を想像する。想像したそれを作っている自分をもう一度想像する。出来ないことはないだろう、簡単だ。しかし、ラップはどこにあるのだろう? その一個一個に厳密な量の決まりはあるのか? 確認しなければならないことが次から次へと湧いてくる。どれほど冷ましたら冷凍庫へ入れて良いのか、そもそも冷凍庫のどの一角にご飯のスペースがあるのかなどなど、気になることが山積みになる。
気になって読書どころではない。
足元の犬がくーんと鳴いた。
「大丈夫。何とかなる」
私はささやいた。
犬がいかにも信用ならないといった風情でこちらを見上げる。
「ほんとに大丈夫?」
隣の部屋から聞こえる妻の声と足元の犬との表情があまりにそぐっていて、私は苦笑する。
05、前回までのあらすじ
一通り観光スポットを体験してみて、「あ―楽しかったね」とスペースへ戻った三人(マキオはかずら橋辺りから合流、二本足で歩きまわるはちわれ猫のアバター)、次は食だとご当地グルメのあれこれを試し始める。
「でもさあ」
と、犬頭がにこにこしながら言う、Twitterで。「これじゃどこにもルパン要素ないよね」」
「ただ観光して回ってるだけだからな」
ぺろっぺロボが徳島ラーメンを啜りながら答える、Twitterで。「面白いけど」
「諸君、この後、この話はこうなる」
そう言う(Twitterで)と、はちわれはノートパソコンを取り出して、
06、ヴァーチャル徳島の危機
07、犯行
08、ヴァーチャル徳島(未来警察トクシマン)
という文字列を並べてみせる。「多分この辺りに徳島を盗む系のエピソードがあるはずなんだ。なんかベタなギャグもあるけど、それはさらっとかわしながら」
09、前回までのあらすじ
すっかりあらすじではないのだけれど。
結局テロリストだかハッカーの仕業でこの徳島は散々な目にあう。鳴門のうず潮を、虚空から現れ出でた巨大な人差し指、ごつごつと節くれだった巨人の指が、まるでタッチセンサースイッチに触れるかのように優しく触れると、ぐごごごと世界の終わりのような地響きがして、そして電子の海の上、徳島の姿がゆっくりと浮かび上がる。横から見える地層の断面はまさに歴史のミルフィーユ、そのまま巨人の口内へと運ばれても不思議のないほどに厳かに。
10、ヴァーチャル徳島(それでも僕たちは、書き続ける。)
そう、多分書き続ける。
ぺろっぺロボは目からビームでヴァーチャルマシンを宙に浮かべ、それに向かって口述筆記で執筆していく。初めて聞くその声は渋くて、なかなかおじさん臭かった。
はちわれも猫の身体のわりになかなか的確なタイピングでさっきからものすごい集中力で書いている。時折一息つくたびに、にゃあと漏らすのが可愛い。
そして僕は、太めの万年筆ですらすららっと後で読んだら分からない、リアルタイムな物語を書き綴る。とりあえず書いたのは犬が玄関へと向かうシーン。誰かが帰宅して、それを出迎える老犬の話。そうしてまた部屋のドアへ戻り、そしていつまでもそこを離れない。再び飼い主がそのドアを開けて出てくるのをいつまでも待っている。