見出し画像

秦が天下を統一できたのは、黄土高原のおかげ? by 村松弘一(GEN世話人)

======================
 秦はなぜ天下を統一できたのか。それは秦が黄土高原を領有していたからではないか。馬の生産の場としての黄土高原の歴史的な意味づけを考えてみたいと思います。
======================
 秦の始皇帝はなぜ天下を統一できたのか。これはなかなか難しい問題です。これに対して、私は秦国が黄土高原を領土としていたからではないかと考えています。秦の統一前の戦国時代、各国の軍隊は歩兵と戦車から構成されていました。戦車とは今のタンクではなく、四頭立て馬車に御者と兵士が立って乗り、すれ違いざまに武器で相手側の車輪や兵士をたたき壊す兵器です。しかし、戦国の後半に勢力を伸ばした秦と趙はいち早く騎馬隊を組織して、戦争を優位に進めました。機動性に優れた騎馬は戦車よりも大きな戦果をもたらしたのです。ただし、この騎馬軍団を組織するには、大量の軍馬を生産する必要があります。そして、馬を生産するためには広大な草原が必要です。
 
 ところが、中国大陸には草原はほとんどありません。農業と遊牧・牧畜の分界線にあたる年間降水量400mmラインの上にある黄土高原は何とか草原が広がる南限になります。ここを領有した秦は馬の生産が可能でした。しかし、秦はもともと山間部で馬を生産していましたが、草原での馬の生産のノウハウはありませんでした。

 紀元前5世紀、状況がかわります。近年、樹木年輪セルロース酸素同位体比という分析方法で1年単位での降水量の変動を読みとることが可能となり、気候変動のパターンがわかるようになりました。その分析によれば、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて、乾燥化の時代であったそうです。乾燥化によって、北方では草原が減少して、遊牧民は草を求めて南下します。この遊牧民は義渠と呼ばれ、秦のすぐ北まで移動してきます。彼らのさらなる南下を防ぐため、秦は万里の長城を建設しました。また、南下してきた遊牧民から馬の草原での生産方法も学んだと考えられます。

 さらに、紀元前4世紀末の秦の武王(秦の始皇帝の曾祖父の兄)の時代の墓から出土した馬の歯のエナメル質のストロンチウム同位体比の調査によると、2歳までの馬は草を食べてすごし、2歳以降の馬は人が作った雑穀を食べていたことがわかるそうです。つまり、馬は2歳になるまでは草原の「牧(まき)」のなかで育てられ、2歳になると首都・咸陽の「厩(うまや)」に移動し、軍馬、馬車や祭祀の際に利用されたのです。このような「厩牧システム」は漢の時代には文献で確認できますが、それ以前の戦国時代の秦にもそのような仕組みがあったのです。

 秦はこのように紀元前5世紀の乾燥化を契機に、秦は黄土高原での馬の生産の技術を手に入れ、牧と厩のシステムを整え、大量の軍馬を生産する体制ができたと言えます。ここで生産した騎馬を活用し、秦は統一することができたのです。まさに、秦の統一は黄土高原の自然環境のおかげであったと言えるのではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?