黄土高原史話<57>太后馮氏がお膳立てby 谷口義介
本シリーズ、「黄土高原史話」と銘打ちながら、なおしばし地域的・時間的に広がらず、北魏の大同から離れません。それというのも大同はGENの緑化協力の拠点にして、北魏の平城時代、中国の北半を支配した強盛国家の首都だったわけだから。 さて、前回は雲崗石窟の調査の経緯をたどったが、その前の<55>は北魏の第4代文成帝(452~465)。このときから、雲崗で石窟の造営が始まります。この大事業、5代献文帝(465~471)・6代孝文帝(471~499)と引き継がれるが、この三代はまさしく北魏の黄金時代。とりわけ名君孝文帝は、その絶頂期を現出する。ただしかし、それを準備したのは、文成帝の皇后にして孝文帝には祖母に当る太后馮(ふう)氏にほかならない。
彼女の父馮朗(ふうろう)は、今の遼寧(りょうねい)西部に建国した北燕(ほくえん)王室の出で、漢人。第3代太武帝(423~452)のとき北魏に入って、今の陝西(せんせい)で地方官をつとめ、そのころ楽浪(らくろう)郡(朝鮮半島)出身の王氏を娶(めと)る。兄の熙(き)とともに陝西の古都長安で生まれ、当時の女性としてはかなり高度な教育を受けた。ところが父がある事件に連座して誅殺され、太武帝の宮中に入って女官となる。次の文成帝が即位するや、特に選ばれて貴人(妃)に昇り、ついには皇后に立てられます。ところが幸せも束の間、帝は26歳で死去してしまう。大喪の3日目、慣例どおり生前愛用の御服・御物の一切を焼けば、なみいる群臣・宮女らは声を上げて泣き叫ぶ。馮皇后も悲歎の極、絶叫するや火中に身を投げた。さいわい左右の者が救け出し、ようやく蘇生するを得た、と(『魏書』皇后列伝)。このとき彼女は17歳、若年ながら烈婦といってよいでしょう。
文成帝のあとは、別の妃より生まれた献文帝が13歳で位につく。皇太后となった馮氏、権勢をふるう乙弗渾(いつふつこん)らの謀反を知るや、機先を制して誅滅し、以後朝政を切りまわす。山東・淮北(わいほく)への遠征も、彼女の命で行なわれた。467年、献文帝の長子として後の孝文帝が生まれてからしばらく政治を離れるが、孝文帝が5歳になると献文帝に迫って退位させ、10歳のときには献文帝を殺害し、ふたたび政治の第一線へ。馮氏が先帝を殺したのは、そもそも彼女の品行正しからず、李奕(りえき)なる者を寵愛したが、先帝がこの男を誅したからだ、と巷(ちまた)の噂(『魏書』皇后列伝)。一代の女傑と申せましょう。
それはさておき、彼女はもとより聡明で、政務を取ってもただちに裁断を下すので、孝文帝はただその命に従うのみ。490年、馮太后は亡くなるが、その摂政時代に始められたのが後世まで影響を与えた均田法と三長制にほかならない。
均田法は485年、漢人官僚李安世(りあんせい)の献議にもとづき創設された。当時問題となっていた豪族の大土地所有を抑制し、農民には年齢・性別などに応じた土地の授給と回収を行なって支配を強化、税収の確保・増大を図ったが、妻・奴婢・耕牛にも給田されたので、それらを多く所有した豪族には有利な面も。三長制は村落に隣長・里長・党長の三長を置く隣保組織で、三長には均田法実施のための戸籍調査・税の徴収を担当させた。理想どおり実施されたかどうかはともかく、これが国家財政にプラスしたことは確かなようだ。かくして孝文帝のとき、北魏の国力は頂点に達します。
ちなみに、『魏書』食貨志に均田の法を述べて、「男一人当り20畝の土地を給すゆえ、穀作の余暇には桑50本・棗(なつめ)5本・楡(にれ)3本を植えよ。桑に不向きな土地では別に1畝を与えるから、楡・棗のみ植えよ桑・楡以外の混植も、また決り以上の増殖も可と致す。ただし3年たっても植樹が終わらないならば、土地は没収」と。一人当り約60本、これはまさに一大植林事業ではあるまいか。
(『緑の地球』144号 2012年3月掲載)
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