黄土高原史話<63>定州大道500余里by 谷口義介
山西省におけるGEN の緑化協力プロジェクトのうちもっとも価値あるもの
を一つ選ぶとすれば、それは霊丘(れいきゅう)県の南天門自然植物園、と。詳しくは、本誌の前々号・前号を参照あれ。
私事ながら、99 年夏・01 年春・02 年春・04 年夏の4 度、ワーキングツアーに。
大同市内を発って、まっすぐ東南方向に進路をとり、桑干河(そうかんが)が を渡り、渾源(こんげん)県城を過ぎ、恒山(こうざん)(標高2,016 m)の西麓をかすめて、おおむね唐河(とうが)が に沿って走り、霊丘県に入ったあたりで初めて東に向きをかえ、県城を出てからふたたび東南方向に転じ、さらに行って唐河と上寨河(じょうさいが) の合流地点で唐河を離れ、今度は上寨河沿いを南西に少し行くと、そこが上寨鎮南庄村(なんしょうそん)。しかし今回このルートをたどったのは、ここ南天門自然植物園での植林活動のためではありません。
唐河と上寨河の合流点で南西に折れるのではなく、そのまま唐河に沿って
東南に向かうと、ほどなくして河北省。さらに行くと、唐河は西大洋ダムに流れ込むが、その先もう少しのところに定州市が位置します。つまり、大同市内からスタートして、ここが今回の目的地。それというのも、今を去る1616年前の397 年、北魏によって定県(定州)にあった後燕(こうえん)の都中山(ちゅうざん)が陥落し、翌398 年、中山から大同盆地に至る500余里の「直道(ちょくどう)」が開かれたから(前々回・前回参照)。
396 年8 月、のちの道武帝=拓跋珪(たくばつけい)は、同じ鮮卑(せんぴ)族ながら拓跋部とは別系統の慕容(ぼよう)部が建てた後燕を伐つべしと、六軍40 万余を従えて、当時の都盛楽(せいがく)(内モンゴル和林格爾(ホリンゴル))を進発する。そのうち将軍封真(ほうしん)らの三軍は、東行して河北に入り、上谷(じょうこく)(北京の北)から南して薊(けい)(北京)を囲む。いっぽう、珪みずからは主力をひきいて山西を南下、馬邑(ばゆう)(朔州(さくしゅう))から句注(こうちゅう)の峠を越えて、晋陽(太原)を攻略するや、ここに并州(へいしゅう)治所(行政府)を設置する。ついで10 月、5 万騎を先駆けさせて井陘関(せいけいかん)から河北に入り、まず真定(石家荘)を降したが、主要3 都の中山・鄴(ぎょう)(河南省安陽の北)・信都(冀州(きしゅう))が抜けない。そこで珪は持久の策を立て、滹沱河(こだが) の左右を去来すること数カ月、後燕の慕容宝(ぼようほう)にたえず圧力を加えたので、たまらず宝は397 年2月、全軍を招集して、珪の陣屋に決死の夜討ち。北魏の軍は驚きあわて、珪自身、衣冠もつけずに飛び出すありさま。しかして珪は一計を案じ、本営の外にノロシを焚いて敵の注意をここに引き付け、別の一団をば宝の陣地に突入せしむ。かくて斬首(ざんしゅ)万余級、捕虜4,000 余人の大勝利。
その後も各地を転戦するが、河北の平野で見たものは、ヒトの多さとモノの豊かさ。圧倒的な経済的・文化的格差です。ことに鄴に入ってみれば、そこは前燕(ぜんえん)の旧都とて、なお宮殿・楼閣甍(いらか)をつらね、また中山には王宮・仏殿そびえ立ち、皇帝玉璽(ぎょくじ)や図書・珍宝、トータル数万にも上ります。
398 年1 月、拓跋珪の命により、
「卒万人を発して直道を治む。望都(ぼうと)の鉄関より恒嶺を鑿(うが)ちて代に至る五百余里」(『魏書』太祖紀)
つまり、中山(定州)のすぐ北の望都よりして、恒山を切り開き、代郡(平
城)に至る幹線ルート、いわゆる定州大道を設けたわけだ。ここを通って、
「山東六州の民・吏および徒何か ・高麗の雑夷三十六万、百工・伎巧十万余口」が強制移動。むろん厖大な戦利品も、車馬に積まれて平城へと運ばれた。
このあと、太武帝時の436 年8 月には、
「定州七郡一万二千人を発して莎泉道(させんどう)を通ず」(世祖紀上)
とあり、莎泉とは霊丘と渾源の中間の地。
また、孝文帝の482 年7 月には、
「州郡五万人を発して霊丘道を治む」(高祖紀上)
とみえている。莎泉道・霊丘道とも「定州大道」の一部にほかならない。
つまりこのルート、たえず補修がなされたわけだが、それは定州の重要性に起因する。直道先端の定州は河北支配のポイントとて、大部隊が進駐し、治所も置かれて統治に当った。
(『緑の地球』151号2013年5月掲載)