
黄土高原史話<62>北の大地の百万都市(下)by 谷口義介
つまり北魏の初代道武帝の段階で、首都平城の人口は近郊も含め100 万に
達したが、増加の最大理由は強制移民。特に398 年1 月の46 万余口によって、一挙に2 倍にふくらみます。
396 年8 月、拓跋珪(たくばつけい)(のちの道武帝)は、同じ鮮卑(せんぴ)族ながら拓跋部とは別系統の慕容(ぼよう)部が河北に建てた先進国家後燕(こうえん)を伐つべしと、40 余万を従えて、ときの根拠地盛楽(せいらく)より進発する。目指すは都の中山(ちゅうざん)(河北省定県)で、翌年2月、激戦のすえ斬首万余・捕虜4000 の大勝利。さらに各地を転戦したあと、拓跋珪は中山に戻り、そこで人夫1 万を動員して、河北望都(ぼうと)の鉄関から恒山を切り開き、大同盆地に出る直通500 余里の道路を敷く。かくて新たな征服地「山東六州」の民・役人と徒と何か 部の鮮卑・高麗(こうらい)人など36 万、河北の中山や鄴(ぎょう)(後趙(こうちょう)の旧都)からの技術者ら10 万余人が、398 年1 月、このルートを通って大同へと送られた、という次第です。
拓跋珪も同年2 月、同じルートで山西に帰り、4 月祭天の儀礼を挙行、7 月
には平城に遷都して、12 月自ら帝位に即く。さらに399 年には、あわせて10
万人ほどが漠北から平城へと強制移住。かくして従来の基礎人口に東・西からの移民が加わって、短期間に100 万都市の出現をみた。
李凭(りひょう)氏の近著『北魏平城時代(修訂本)』(上海古籍出版社、2011 年)は、「道武帝期の大量移民で京畿の人口は約150 万」と推計するが、少し過大な気もします。

それはともかく、道武帝以後も、断続的に平城への移入は行われる。
(a)418 年4 月 数不明
冀・定・幽3 州の徒何部を平城に
(b)435 年1 月 数不明
長安・平涼から平城に
(c)439 年10 月 3 万余家
涼州(北涼(ほくりょう)の都)から平城に
(d)446 年 2000 余家
長安の技術者を平城に
(e)447 年3 月 3000 家
定州・丁零から平城に
(f)448 年 5000 家
西河・離石から平城に
(g)451 年3 月 5 万余家
降民を平城周辺に分置
(h)469 年10 月 数百家
山東から平城に
(i)481 年2 月 3 万余口
南朝斉(せい)の捕虜を平城にかくみると、平城の人口は増える一途のようですが、ときに戦死も餓死者もあり、生産力に限界もあって、それが減少の要因になる。たとえば、415年には飢饉により平城の民が飢えたため山東方面で食を求めさせ、427 年の西征では路に死す者数知れず、帰還者は十に六、七と。また435 年、長安・平涼から連行した民の一部を各自の郷里に帰らせている。
北魏平城の人口はプラス・マイナス勘案して100 万前後で推移した、とみ
るのが穏当では?
なお、前回< 61 >の下より11行目「京師(=都)をし」→「京師(=都)を充(み)たし」に訂正。
(「緑の地球」150号 2013年3月掲載)