黄土高原史話<25>死は何処に在りや? by 谷口義介
この春、初めて広州へ。「食は広州に在り」というけれど、目的はハクビシンに非ず、西漢(前漢)南越王墓。第2 代趙眛(ちょうばつ)(B.C.137 ~ 121?)を葬ったもので、象崗山の上から岩盤を約20m掘り込んで造った石室墓です。
10 年ほどまえ行った北京の大葆台(だいほうだい)西漢墓は、1号墓が武帝(B.C.156~87)ゆかりの広陽頃王劉健のもの。南北23.2 ×東西18m、深さ4.7m の大型木槨墓ですが、特筆すべきは内部の「黄腸題凑(こうちょうだいそう)」。これには、ホント驚きましたね。黄腸というのは柏(コノテガシワ)の黄色い芯の部分で作った槨のこと。題とは端(はし)、凑とは会(あつま)るを意味するから、柏の黄芯を集めて積み重ね、その端を揃えるので、黄腸題凑と呼ばれるわけ。いわば角材の小口積み。若い頃、横穴式石室の小口積みを1 個1 個実測させられ、ホトホト参った経験があります。長さ90cm、切り口10cm 四方の角材1 万5880 本が、高さ3m 積み重なり、総長42m。この内部の前室がいわゆる便房で、被葬者の霊が起居飲食するところ。後室には二重の槨と三重の棺が安置。
『後漢書』霍光伝によると、霍光(?~B.C.68)が死んだとき、朝廷から、梓宮(梓で作った棺)・便房・黄腸題凑・樅木外臧椁(副葬品を納める槨)、その他を下賜されています。
1999 年に北京で見つかった老山遺跡では、513 本の角材を以って、幅5m、高さ2.5m に積み上げている。ただしこの「題凑」、コノテガシワではなく、栗と松の混用らしいので、「黄腸」に非ず。黄腸を用いるのは、それが芳香を放つから。陝西省鳳翔県の秦公1 号大墓も、黄腸題凑。戦国時代の諸侯や漢代の諸侯王クラスの槨室で、時おり見られます。
柏か栗か松かはともかく、この題凑というのはトテツもない木材を必要としたわけですが、そもそも北中国では新石器時代以来、大型墓・中型墓といえば木槨木棺墓が一般的。木材を所要の長さに切り揃え、丸太のままか板状・方柱状に加工して、これを横架・縦架することで、棺を納める空間を地中に確保。つまり木槨墓というのは、木材多消費型の墓制です(小型墓の木棺にも、木を使うことは自明)。
山東省の大汶口10 号墓を初見として明・清時代まで続きますが、華北では大径木を使った木槨墓は前漢中頃にはなくなり、レンガを用いた墓制に変化。もちろん森林の減少に原因があります。ところが、明・清になっても、江南では存続。
「死は柳州に在り」
柳州は南中国の広西省で、棺に適するヤナギの木が多いことから。明・清時代になってできた諺ではないでしょうか。
(緑の地球103号(2005年5月)掲載分)