黄土高原史話<23>こだわるわけではないけれど by 谷口義介
いま、新しい苗圃の建設作業が最終段階。
大同市から北東へ10 キロほど行った地点に、7ha の土地を確保。「小老樹」を抜いて整地し、井戸を掘り、レンガで管理棟などを建て、そのまわりを塀で囲み……。今春スタートの予定で、ここでは針葉樹の育苗がメインになる由。
問題は、新しい苗圃の名前を何とするか。
正面に白登山が見えます。そこで高見GEN 事務局長から、「白登山苗圃」にしたら、という提案が。しかし、これには現地スタッフが気乗り薄。前回< 22 >で書いたように、漢の高祖劉邦が匈奴の冒頓単于(ぼくとつせんう)の40 万騎に包囲され、7 日目、屈辱的な和約を結んで脱出できた、いわゆる「平城の恥」の古戦場。2204 年後の子孫にとっても、面白かろうはずがありません。
「匈奴なんかに負けたんじゃない、寒さに負けたんだ」という負け惜しみの声すら。それを知ったうえで、さらに「冒頓苗圃」案を出すとは、ほんの冗談とはいえ、ガオジェン(高見)先生もお人が悪い。
「遊牧民族が得意とする偽装の逃走戦術にまんまと引っかかった劉邦の将才のなさは歴然」と、杉山正明『遊牧民から見た世界史』はこきおろす。
『史記』匈奴列伝によれば、漢が匈奴と結んだ和約の内容は以下の如し。
(1)漢王室の皇女を単于の妃として差し出す。
(2)毎年、綿・絹・酒・米などを献上する。
(3)皇帝と単于との間に兄弟の契りを結ぶ。
戦いの後、匈奴の実力を知った高祖が、劉敬に命じて締結させたことになっていますが、それはおそらく記述上の後倒し。三条件は包囲の重圧のさなかで約されたに違いありません。漢にとっては屈辱的な内容ゆえ、陳丞相世家にいうごとく秘密にされ、かつまた匈奴列伝では、
「そのころ、匈奴へは漢将がしばしば衆兵を引きつれて投降し、また冒頓は常に往来して代〔大同市一帯〕の地を侵した。漢ではこれをうれえ、高祖は劉敬に命じ、……和親した」
と、ぼかして書いたのでしょう。
司馬遼太郎は、司馬遷を敬仰するあまり、「司馬」遷には「遼」(はるか)に及ばない、という意を込めてペンネームにしたとか。大阪外大で蒙古語を学び、『草原の記』なども書いて
遊牧世界に詳しかった司馬遼。『項羽と劉邦』のあと、ぜひとも『冒頓と劉邦』を書いてほしかった。
1977 年8 月某日、オルドスに向け北京空港を飛び立った同氏、午前9時20 分ごろ、機上から地図と照合しつつ白登山を探したが、確認できなかった、と。(『歴史の舞台』)
(緑の地球第101号(2005年1月)掲載分)