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黄土高原史話<32>漢と匈奴の攻防は by 谷口義介

 吉川幸次郎先生の『漢の武帝』。各章ごとのタイトルが「阿嬌(あきょう)」「匈奴」「賢良」「西域(さいいき)」「神仙」と並びますが、これはア行・カ行・サ行の順を踏んだもの。博士の周辺から漏れ聞いた話です。
それはともかく、問題は匈奴。
 漢初以来の弱腰外交に不満があったうえ、前回述べた馬邑(ばゆう)事件の大失敗。腹わたの煮えくり返った若き武帝、4年後のB.C.129年、1人の男を車騎将軍に任じます。これぞ翌年、武帝の子を生んで皇后となる衛子夫(えいしふ)の弟ながら、微賤の出の衛青(えいせい)なる者。父が他家の婢妾と密通して生ませた子で、少年時、父の郷里の山西平陽(臨汾)で羊の放牧。「当時その辺の風俗は、実はだいぶ匈奴化しており、羊かいの童子は、馬に飛び乗って、山野をかけめぐっていたのではないか。匈奴化した漢人、それこそ匈奴と戦うのに、最も適した人間である。」(『漢の武帝』岩波新書版67ページ)
 むろん、衛青1人では戦さに勝てません。
 車騎将軍は文帝のとき初めて置かれた官ですが、文帝・景帝時代から、政府はいわゆる馬政を施行。民間に馬の生産を奨励し、軍馬1頭を育てれば3人の兵役を免じます。また馬苑36ヶ所を西北辺に設置して、総計30万頭を飼い育て、専門の役人に管理させ、柵を厳重に防護する。かくて武帝の即位のころ、  
 「一般人民も馬に騎(の)って街巷を行き、その馬は田野に育てられ、阡陌(あぜみち)の間に群れていた。」(『史記』平準書)
 そのうえ文・景の政治もよろしきを得、国庫には財貨が満ち溢れ、倉稟(そうりん)の粟は腐るほど。しかし、十分な軍馬の用意があってこそ、強力な騎馬軍団が編成でき、匈奴と対等に戦えます。
 B.C.129年秋、衛青は騎兵1万で匈奴の本拠を急襲し、斬首数百の戦果をあげる。これまで守勢一方の漢軍が、長城の北へ打って出た記念すべき戦いです。
 翌128年は、騎兵3万、山西の雁門から出撃し、数千を斬って帰還する。
 さらにその翌年には、山西の雲中から出て長城の北側を西に廻り、長躯して甘粛の隴 西(ろうせい)へ。オルドスの地を手に収め、朔方(さくほう)郡を設けます。
 これに対し匈奴では、軍臣(ぐんしん)単于が死んで弟が即位。B.C.126年夏、数万騎をもって代郡に侵入、太守を殺し郡民を掠奪。秋には、雁門郡を侵します。
 またその翌年には、大挙して代・定襄・上(じょう)の3郡に侵入し、数千人を殺戮寇掠。
 B.C.124年、衛青は6将軍・十余万の兵を率(い)て、朔方郡から出撃し、匈奴の右賢王(うけんおう)を包囲する。辛うじて右賢王は逃げますが、漢軍はその部下の小王十余人、男女の衆1万5千を捕虜として、意気揚々と引き上げる。衛青は大将軍へと栄進し、位(くらい)人臣を極めます。
 このあと匈奴は長城の外に駆逐され、戦いの場は甘粛・ゴビ砂漠方面へ。漢軍の主役もこのころより、衛青からその甥の驃騎(ひょうき)将軍霍去病(かくひょけい)へと交替し、敵に大打撃を与えます。かくして漢は念願の西域ルートを確保して、オアシス諸都市を支配する。おりしも武帝は壮年期、漢の版図は極大です。
 匈奴には内紛生じて、弱体化。だが漢側も、巨額な軍事支出で財政破綻、重税による経済のひずみが加わって、社会不安が広がります。
 それでも武帝、最晩年に至るまで、匈奴攻撃を止めません。
 B.C.87年春、在位五十有余年、享年70歳にして、五柞宮(ごさくきゅう)で崩御する。『漢の武帝』の終章は、「返魂(はんごん)」「望思」と「むすび」で閉じる。もちろんハ行とマ行です。
(緑の地球112号2006年11月掲載)

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