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黄土高原史話<64>都づくりの総仕上げby 谷口義介
日・中の双方とも9 割以上が相手国に良くない印象をもっている、という最近の世論調査(私の実感とは異なるが)。
折も折とて、催行が危ぶまれていた今夏のスタディツアー、参加者20 名ほどで、初めての人も多いとか。「こんな時だからこそ中国へ」とおっしゃる方も。その志、壮なる哉。百聞不如一見(バイウェンプールーイージェン)です。
さて今回も、北魏は平城(大同)の話の続き。
北魏が華北を統一したのは439 年、第3代太武帝のときのこと。これより宋と北魏による南・北朝対立の構図が定まるが、以後も北魏の南下は止まず、宋の都建康(けんこう)(南京)は震駭(しんがい)し、王族からは北魏に亡命する者も。469 年、北魏は宋から山東省の青州(せいしゅう)を取る。第5 代献文帝のときのことですが、実権をにぎっていたのは馮太后(ふうたいこう)、おそらく彼女の意図に出たのだろう。それはともかく、黄河南側の青州は宋の影響下にあったのだが、王室内部に争いがおこると、連動して地元でも対立が激化。北魏はこれに乗じて兵をすすめ、この地を奪取したという次第です。そして抵抗派の名望家・崔氏(さいし)とともに数百家を平城近くの桑乾(そうかん)河畔に拉致しきたって、そこに平斉郡(帰安・懐寧の2 県)を建置した。平斉郡とは、もとより山東の古名=斉にちなんだ名前です。
さて、「平城に入りて、平斉戸(へいせいこ)に充(あ)」てられた一人に、蒋少游(しょうしょうゆう)なる技術者あり。身分が低いとか、独習・我流のゆえをもって初めは軽んじられますが、「性(うまれつき)機巧、頗(すこぶる)画刻(絵画・彫刻)を能(よ)」くしたので、役所の「写書生」からスタートし、政府高官の引きもあり、第6 代孝文帝の時代には朝廷の「衣冠」のデザインをまかされる。また平城宮の内部に皇信堂(こうしんどう)あり、その壁には少游の筆により忠臣・列士の像が描かれた。その後も将作大匠(しょうさくたいしょう)(建設技術総監)として、華林殿(かりんでん)・金庸門(きんようもん)を手がけて能力を発揮、その造るところは「妍美(けんび) なり」と称された。
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しかし、少游の大仕事は、なんといっても都の中心=太極殿(だいごくでん)の建造です。
「平城に於て将(まさ)に太廟(たいびょう)と太極殿を営まんとし、少游を遣つかわして伝(駅馬)に乗りて洛に詣(いた)り、魏・晋の基趾(きし)を量準(はか)らしむ。」
そもそも太極殿というのは、三国・魏の235 年、明帝(めいてい)が建造したあと西晋末にいたるまで首都洛陽の正殿でありつづけた。しかし316 年、西晋が永嘉(えいか)の乱でほろんでから、洛陽は東晋・前秦・宋などの激しい争奪の地となって、城内は荒廃するにまかされる。493 年、孝文帝は洛陽の故地をめぐったが、亡国の悲運に想いをはせ、『詩経』王風黍離(しょり)の詩を口ずさんでは涙数行くだりし、と。(ちなみにこの詩は西周の旧都鎬京(こうけい)の荒廃を歎いたもの)。
その前年の492 年2 月、孝文帝は平城の正殿だった太華殿(たいかでん)をつぶし、太極殿の建設を開始。それに先立ち少游を洛陽に派遣して、太極殿の遺構を測量・調査させ、新宮殿のモデルとする。つまり帝は、国都平城を中華の都たる洛陽に擬(ぎ)したのだ。同年のうちに太極殿は竣工するが、最大の功労者は設計・監督にあたった蒋少游。翌493 年正月、落成記念の大パーティーが開かれる。
つけたしにエピソードをひとつ。
この人、文藻もゆたかだったが、詩文などには目もくれず、いつも網尺を持って「園湖城殿」を測量してまわっていたので、ときの識者・文人は惜しいことだと慨歎した、と。
以上、「」内の引用文はすべて『魏書』巻91「術芸」による。
(「緑の地球」153号 2013年9月掲載)