黄土高原史話<24>バカとアホウの語源は何か by 谷口義介
数年前ご一緒したワーキング・ツアーの不良中年組に、「バカで酒鬼(大酒飲み)」の尊称を奉らん。バリバリの第一線に在りながら、黄土高原に入れ込んで、連夜の汾酒(フェンジュウ)、愚にもつかぬこと(?)で、カンカンガクガク(侃侃諤諤)。ほとんど西日本の出身者だったので、バカではなくアホウとすべきでしょうが。
「バカ」は、サンスクリット語のmoha 慕何より出づ。ただ、一説に馬鹿と書いて、秦の趙高が鹿を二世皇帝に献じて馬といった故事に本づく。もちろんバカは趙高ではなく、二世の方。
「アホウ」は阿呆とも書くが(芥川龍之介『或阿呆の一生』)、阿房とも(内田百閒『阿房列車』シリーズ)。秦の始皇帝は、渭水北岸の咸陽宮では手狭になったと、南岸の上林苑に宏大・壮麗な阿房宮を築いたが、数年で国が亡び、未完成のまま宮殿も炎上、だからアホウなことをした、と阿房宮起源説を信じていました。アホなはなし。
この阿房宮、『史記』始皇本紀に記述あり。東西500 歩(690 メートル)×南北50 丈(115 メートル)の巨大な建物で、堂上には1 万人以上坐らせることができた、と。現在でも、東西1270メートル×南北426 メートル、高さ数メートルの基壇が残る。この上に建てられていたのでしょう。丸瓦・平瓦・空心磚(レンガ)なども出土。項羽によって焼かれたと伝えられますが、いま復元、もちろん中国各地に見られる観光用です。
さらに始皇本紀には、「北山の石を切り出し、蜀・荊の材を運ぶなど、いろいろの資材」を集めて建造した、と。このうち「蜀・荊の材」に注目したい。蜀は四川省、荊は楚で湖北省、そこからはるばる建築用材を運んだというのです。
そもそも秦が本拠とした関中は、決して森林の乏しい所ではありません。戦国末、秦に遊説した荀子、ときの宰相から印象を問われて、「山林川谷は美にして、天材の利多し」、つまり山林は豊か、と答えています(『荀子』彊国篇)。少し西になりますが、「隴西(甘粛省)は山に林木多し」、と『漢書』地理志にあります。
それなのに、遠くから材木を運んできたのは、建築用材としては南方産が適していたからか、それとも近場の樹木が少なくなり、膨大な需要をまかなえなくなったからか。1986 年、西安から西へ350 キロほど行った甘粛省天水市放馬灘の一号秦墓から、木材の搬出ルートを画いた4 枚の木板地図が出土。松や柏(コノテガシワ)・薊柏などの森林に至る行路が描かれています。戦国以来、秦がこの地区で森林を管理、材木を切り出していたことは明らか。
始皇帝による木材消費量は、おそらく空前絶後、半端なものではありません。秦王に即位してから37 年間、自分用の陵墓を造り続けますが、死に至るまで完成せず。20 世紀最大の考古学的発見の一つ、兵馬俑坑、8000 体にのぼる陶兵・陶馬を焼くだけでも、燃料としてかなりの薪を必要としたでしょう。そのうえ晩年には、阿房宮のほか大土木工事が集中しました。
忘れてならないのが、直道。対匈奴作戦のための軍用道路です。南は咸陽近くの雲陽(陝西淳化)から、北は内モンゴル包頭(パオトウ)近くの九原まで。山を削り谷を埋め、稜線を選び平原を直進。黄土高原とオルドスの景観を一変させました。1988 年、その途中の楡林県城北にて、延長70 キロ、幅160 メートルの直道遺構を検出、と。全コースこの幅とも思えませんが、周囲の生態系にかなりの影響を与えたのでは。
(緑の地球第102号(2005年3月)掲載分)