見出し画像

黄土高原史話<58>祖母一孫でなく母一子では?by 谷口義介

 前回「太后馮氏がお膳立て」を書いていて、これは歴史小説のネタになる
と見立てたが、案の定、華流ドラマ「北魏馮太后」が2006 年に制作されていた由。ネットで検索すると、
 中国版「善徳女王」!中国史上初の女性権力者“馮太后(ふうたいごう)”の波乱に満ちた生涯を描く、大スペクタクル歴史劇。
 このキャッチコピーからも、日本で大モテした韓流ドラマの二番煎じが見
え見え。ちなみに「善徳女王」とは新羅最初の女王。また「中国史上初の
女性権力者」といえば、馮太后よりまえ、漢の高祖劉邦の呂皇后。高祖の没後、一族を次々登用して事実上の呂氏政権を樹立、夫の愛妃の手・足を切り、目・口をつぶし、人ブタと呼んで飼ったというから、何ともすさまじい、恐ろしい。善徳女王も馮太后も、これには真っ青!
 それはともかく、
 中国を代表するスタッフ・キャストが結集。壮大なスケールで描かれた  話題作がついに日本上陸!
 関西では京都テレビが放映したが、あいにく滋賀県北部にある拙宅までは
同局の電波は届きません。
 そこで全42 話、1回50 分の内容をサイト情報で見ると、定説どおり馮太
后と孝文帝を祖母-孫の関係でとらえていて、この点は前回拙文も同じ。し
かし、両者は実は母と子だったという説も、以前から存在するのです。
 川本芳昭『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝―』(中国の歴史05、講談社、
2005 年)によると、孝文帝の出生の秘密に関しては当時かなりのウワサに
なっていた可能性があるという。それは、『魏書』や『北史』が、孝文帝は馮太后の一族を厚遇したのに反し、孝文帝の生母として記述する思皇后李氏の一族に対しては極めて冷淡だった、としている点。また孝文帝は馮太后の死後、本来なら実の父母に対してのみ行うべき「三年の喪」に、群臣の反対を押し切って服そうとした、と。一方、馮太后はとびきり権勢欲の強い人物だったのに、「高祖(孝文帝)の生まるるに及び、太后みずから親しく撫養す。この後、令(臨朝聴政)を罷め、政事を聴かず」とあるごとく、孝文帝の誕生と同時にキッパリ引退しているのは、いかにも不可解。つまり、両者の間には強い母-子の情が通っていたとみられるが、それはあくまで状況証拠。しかし当時の史書には、馮太后と孝文帝の関係を「母子」の語をもって表現しているものもあるらしい。
 かりに孝文帝の実母を馮氏だとして、ではその父は誰か? 川本氏は献文帝ではないかと推定し、根拠として遊牧民に特有のレヴィレート婚をあげる。レヴィレート婚とは、父の生前の夫人はその後をついだ息子の妻になる(生母は除外)という風習。つまり、馮氏は文成帝の皇后(文明皇后という)だったが、帝の死後、元皇后李氏から生まれた献文帝の妻になり、両者の間に孝文帝が生まれた可能性は十分ある、と。
 前回述べたように、文成帝が死去したとき、馮氏は悲歎の極、火中に投じ
たというほど帝を熱愛。ところがレヴィレート婚の掟ゆえ義理の息子の妻とされたが、頼りない若い夫を愛するには至らない。しかし生まれた息子は別であり、孝文帝が5 歳になると、献文帝に迫って退位さす。ところが夫の方には未練があって、馮氏が李りえき奕という愛人をつくると、嫉妬にかられてこれを誅殺。怒った馮氏が今度は先帝たる夫を殺してしまった、というわけだろう。


 では当時、馮氏と孝文帝を祖母―孫とする話がまかり通っていたのだろう
か。実は周囲はすべて母-子とみていたのだが、「北魏には外戚の勢力の台
頭をおさえるため、世継ぎとなる皇太子の生母に死を賜るという奇習があっ
た」。馮氏はこの「旧例によって自身が死を賜ることを恐れた」(川本氏著
237 ページ)。むしろ、周囲が猛烈キャラの馮氏を恐れて、母-子たる関係を知りながら、祖母-孫説を信じたふりをしていたのでは? そこで馮太后は自分の一族を厚遇できたというわけだ。ちなみに孝文帝は即位後、この奇習=旧例を廃止しています。
(『緑の地球』145号 2012年5月掲載)

いいなと思ったら応援しよう!