黄土高原史話<56>雲崗石窟博物館 by 谷口義介
今夏ワーキング・ツアーの最終日、雲崗石窟の説明は現地ガイドの某氏、いささか頼りない日本語だったとか。それもあって参観には前回拙文が役
立った、とツアー同行のGEN 事務所河本さんの話。久しく木を植えに行って
はいませんが、このシリーズ、本誌の埋め草くらいにはなっているかも?
今回の準備とて、李凭(りひょう)著『北魏平城時代』(社会科学文献出版社、2000 年)など披見のおりしも、『朝日』紙10 月26 日の文化欄に記事あり、「世界遺産に歴史の影」「中国・雲岡石窟 周辺に博物館整備」「日本人の学術調査 展示で触れず」と。
取材した永井靖二記者によれば、「雲岡が世界に知られるようになった経緯に、日本の研究者が深く関わっている」と雲岡石窟研究院の張煒(ちょうい)院長は説明するが、博物館に展示された年表には、日本の調査にまつわる記述なし。担当職員は「一般の人からの反発も予想されるので…」と言葉を濁した、と。
本誌は50 部ほど中国に送られているそうですが、読者はおそらく「一般の人」ではないだろう。そこで上記の「経緯」について一言するなら。
雲崗石窟を再発見したのは、東大建築学科の伊東忠太。1902 年から3 年間、中国・インド・西アジアを踏査したおり訪れて、その学術的重要性を指摘したのに始まります。これを承けて07 年、フランスのF. シャバンヌが多くの写真を撮影し、石窟番号をつけて、09 ~ 15 年『北中国考古図録』を発表。ついで17 年には、大村西崖が文献と図版を多用して『支那美術史雕塑篇』を出しました。
ところで清代にはその学術的価値が認められることはなかったが、民国期
に入って1920 年、陳垣(ちんえん)が『東方雑誌』に「記大同武州石窟寺」を登載し、種々考証を加えている。伊東教授の論文に刺激を受けたものらしい。
同じ1920 年、詩人としても有名で美術史にも造詣が深い東北大・東大医学
部の木下杢太郎(本名・太田正雄)は、洋画家の木村荘八と共にこの地に滞在。十数日間石窟内に籠って、仏像の写生・撮影・拓本取り、石窟の平面実測もしています。参考までに、木下杢太郎著『大同石窟寺』(座右宝刊行会、1938 年)から、同氏の手になる西側諸窟の挿絵を一枚。
しかし、それまでの研究に画期を与えたのは、なんといっても1926 年の関
野貞・常盤大定『支那仏教史蹟』巻二。現在も使われている石窟番号は同書に拠る。つまり世界的に雲崗の存在が知られるようになったのは20 年代で、その役割を主に担ったのは日本の研究者というわけだ。
このあと1938 ~ 44 年の間、東方文化研究所(現・京大人文研)は水野清
一を隊長として調査団を数回派遣。撮影・実測・拓本・小発掘による厳密な
考古学的調査がなされます。もちろん、このころ山西省を占領していた日本軍のガードの下ですが。当時、雲崗石窟寺は廃寺に近い状態で、仏像は次々と破壊、持ち去られていて、石窟内は隣接する農家が土間として利用していたとか。調査中の苦労話など詳しくは、参加した長廣敏雄の著書『雲岡日記-大戦中の仏教石窟調査』(NHK ブックス、1988 年)をご参照あれ。調査団は51 ~56 年、戦後の物不足とひもじさに耐えながら、『雲岡石窟』16 巻32 冊を刊行。「雲岡石窟の研究に確固たる基礎を置く世界的大著」として高い評価を得た。
(『緑の地球』142号 2011年11月掲載)