黄土高原史話<29>文帝覇陵は未盗掘? by 谷口義介
いま塀の中のH前社長、取調べ以外の時間はもっぱら読書、『史記』も差入れてもらったとか。おそらく、「貨殖列伝」あたりを熟読しているのでは。
つられて(?)当方、「酷吏列伝」を読んでみた。そしたら、何と
孝文園(文帝の陵園)の瘞銭(えいせん)(死者のため墓に埋める銭)を盗掘した者がいた。(小竹文夫・小竹武夫訳)
という記事に遭遇。
つまり前回、「文帝の覇陵は、過去に盗掘されたという記録はありません」と断言したのは、間違いだったということに。
そもそも、山西の田舎の殿様が皇帝となり、「仁君」と称され、陵墓には「墳を築かず」「山川を損(そこな)わ」なかったばかりか、陵園(墓域を区切る外周の部分)の内側に「柏樹を稠(おお)く植え」たとくれば、“黄土高原の環境と森林”がコンセプトの本シリーズ、文帝の墓は盗掘にあわなかった、と締めたくなろうというもの。
意(情?)余って筆がすべるのは、褒められたことではありません。
ただ、「酷吏列伝」の古注によると、瘞銭というのは陵園の四隅に埋める副葬品の貨幣のこと。覇陵の陵園は、『咸寧県志』によれば、「周囲三百丈」(約900 メートル)あったという。盗掘者はそのコーナーから失敬したわけだ。ですからこの場合、始皇帝の驪山陵・武帝の茂陵のように墓の本体が発(あば)かれたとはいえません。
ちなみに事件発覚後、陵園から銭が盗まれたのは、四季ごとに御陵を巡察する丞相の責任とて、ときの丞相荘青翟(そうせいてき)は武帝の前に伺候して陳謝、武帝は調査を命じています。
「酷吏列伝」には、盗掘の話がもう一箇所。
王温舒(おうおんじょ)は陽陵(陝西・咸陽の東)の人である。若いとき、塚をあばいたり、その他さまざまな悪事をはたらいた。(同上訳)
のち役人となり酷吏として辣腕を振るうわけですが、陽陵邑といえば文帝の子の景帝の陵墓があったところ。景帝陵=陽陵は、文帝覇陵と違って平地に築かれ、底部が一辺170 メートル、頂部が一辺50 メートル、墳丘の高さ31 メートルの覆斗形。外周する陵園は一辺410 メートル。その周囲に陪葬墓が5000 基以上点在、と。王温舒が若いころ荒したのは、おそらく群小の陪葬墓だったのでしょう。盗掘という前科が、役人としての出世の
障害になったようにはみえません。
(緑の地球108号2006年3月掲載)