見出し画像

黄土高原史話<55>皇帝様は生き仏 by 谷口義介

 このところ若い人のツアー参加が少ないそうですが、今夏は高校生1名・大学生4名とか。必ずや貴重な体験となるでしょう。最終日には、たぶん雲
崗石窟の見学も。
 さて、その雲崗石窟。
 大同の市街から西へ15 キロほど、武州河北岸の武州山南麓断崖に、東西1
キロにわたり穿(うが)たれた石窟寺院で、東側に1 ~ 4 窟、中央に5 ~ 13 窟、西側の東半に14 ~ 20 窟、西半に21 ~ 53 窟。ほかに多くの小窟もありますが、最初に開かれたのは16 ~ 20 窟。北魏の第4 代文成帝(在位452 ~ 465)のとき、高僧曇曜(どんよう)の提言により開創されたので、曇曜五窟と称される。
 そもそも北魏は建国以来、国家主導で仏教を尊信。
 初代道武帝は、398 年のこと詔(みことのり)を下して、「国都に仏像を造り、寺院を建立せよ」と命じているが、これが平城(大同)における造寺・造像の始まりです。また高僧法果(ほうか)を招聘して、道人統(宗
教全般をつかさどる機関の長)に任命。この法果、「帝は英明にして道を好む、すなわち当今の如来なり、沙門よろしく礼を尽せ」と、率先して道武帝を拝している。つまり皇帝は生き仏というわけだが、この考えこそ北魏仏教の特徴です。ちなみに、そのころ南朝の諸国家では、僧侶が皇帝に敬礼の義務なし。
 第3 代太武帝は心底からの仏教信者ではなかったが、439 年、西方の北涼を滅ぼすや、涼州(甘粛省武威)の民3万余家を平城に移す。その地はもともと「村々に寺塔あり」といわれるほど仏教が盛ん。すなわちシルクロード沿いの涼州で栄えた仏教文化を、ゴッソリ移植したというわけだ。
 前回述べたごとく、太武帝は道教びいきに傾いて、446 年に排仏を断行し、平城の寺院や塔は破壊されてしまいます。452 年、帝が宦官(かんがん)宗愛に暗殺されたのは、見方によっては仏罰と申せましょう。
 この宗愛を誅殺して即位したのが、上記の文成帝。太武帝の孫ですが、亡
き父・太子晃(451 年憂死)ゆずりの熱心な仏教信者。即位後さっそく仏教復興の詔勅(しょうちょく)を発布して、道人統にはカシミール出身の高僧師賢(しけん)を任命する。師賢はもともと涼州にいたのだが、北魏が北涼を滅ぼしたおり、平城にやってきたという次第。454 年、帝は先祖5 帝の供養のため、高さ1 丈6 尺の釈迦立像5 体を鋳せしめた。使った銅は25 万斤とか。それぞれ5 帝の姿になぞらえたものとされている。
 460 年、復仏に貢献した師賢が亡くなると、つぎに沙門統(道人統を改称)に選ばれたのが、前出の曇曜にほかならない。じつは曇曜も涼州にい
て北涼の高官たちから礼遇されていたのだが、太武帝による強制移民で平城
に来住したらしい。彼は北魏仏教のさらなる復興に全力を注ぎ込む。その計
画の一つが、武州塞(雲崗)に五大石仏を彫出することだった。
 京城の西の武州塞に於て、山の石壁を鑿(うが)ち、五所を開窟し、仏像
おのおの一を鐫建(せんけん)す。
 高き者は七十尺、次なるは六十尺。彫飾の奇偉なること、一世に冠たり。    (『魏書』釈老志)
 いわゆる曇曜五窟のうち、第16 窟は仏立像で、4 代目の文成帝を模している。初期造営の中断後、20 年ほどして再開されたものらしい。第17 窟は交脚菩薩像で、太武帝の太子晃(諡(おくりな)されて景穆帝)。第18 窟は中尊仏立像で、2 代目の明元帝。最大規模の第19 窟は16.8 メートルの主尊仏坐像で、初代道武帝。第20 窟が中尊仏坐像(写真)で、3 代目の太武帝がモデル、とか。
(『緑の地球』141号 2011年9月掲載)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?