黄土高原史話<26>よもや墓碑などあるまいが by 谷口義介
「せめて年1度、黄土高原の土にまみれて」と念じつつ、今年は春・夏ともツアーに参加できず。植樹作業より、むしろ土器など拾えなかったのが、ちょっと心残り。
そんなわけで今回は、紙上で曾遊(そうゆう)の地の再訪を。2000 年以上も前の話だから、史上探訪というべきか。
ちょうどB.C.200 年、白登山の大包囲作戦で、漢は匈奴に屈辱的な和約。
冒頓単于(ぼくとつぜんう)は兵を引いてくれましたが、高祖劉邦は兄の劉喜(仲)を代王に封じ、代国(雲中・雁門・代の3 郡53 県)の統治を委ねます。親戚をたのんでの、いわゆる同姓諸侯の封建ですが、この劉仲は明らかに人選ミス。漢が成立するまで、戦さのことにはかかわらず、郷里でひたすら田を耕してきた農夫です。
しかも封地は、匈奴と境を接する防衛上の最前線。劉仲にこの要地を守りきる才幹など、望むべくもありません。おりしも、匈奴の将軍となっていたのが百戦錬磨の韓王信、代・雲中の両郡に攻めかかれば、劉仲あっさり国を棄てて逃げ戻る。
しかし、高祖に危惧はあったとみえ、有能な陳豨(ちんき)を代国の相に任じ、かつ将軍として兵を統括させておきました。これにより、辺境の兵権はすべて陳豨に属します。ところが何と、これが裏目。やり手の男には、往々にして野心家が多い。千金を散じて客を集めたり、不法行為も少なからずあったとか。ただしこれは政府筋からの情報、見方によっては魅力ある人物です。
韓王信が部下をやって謀反をすすめたとも、陳豨の方から内通したとも、資料によってまちまちですが、両者の間に連携が成立。B.C.197 年、陳豨は自立して代王に。ちなみに、本拠の代郡代県は今の蔚(うつ)県、平城(大同)の数十キロ東南東です。
これに対して漢の高祖、もと犬殺しの猛将、鴻門の会で勇名を馳せた樊噲(はんかい)を急派して、代・雁門・雲中の諸城を抜きますが、塞外までは兵を出さず。匈奴を刺激しないように、との配慮です。それを知って韓王信は、匈奴の騎兵を率いて参合の地に拠り、漢の猛攻を防ぎます。しかし戦い利あらず、降伏を拒否して、見事な最期。時にB.C.196年の春まだき、参合とは現在の陽高県に当ります。
一方、同年の冬、もとムシロ織り職人で葬式の笛吹き、今や大尉(軍政長官)
の周勃(しゅうぼつ)は、太原より入って代の地を平定。翌年、陳豨を霊丘に撃って、これを斬る。一説によると、樊噲の軍卒が陳豨を霊丘まで追って、これを斬った、とも。
漢の北辺支配は、対匈奴和親策もあり、これより安定に向うわけですが、韓王信・陳豨が最期をとげた陽高・霊丘の両県は、GEN の植林ツアーでなじみの地域。
拙文は、次回訪問のおりのご参考までに。
(緑の地球105号(2005年9月)掲載分)