黄土高原史話<50> 旧大同市博物館 by 谷口義介
毎年春・夏のワーキングツアーでは、だいたい最終日に雲崗石窟に行くのが定番。世界遺産に登録される以前を含め、私も6回ほど見学したことが。今春で17回目参加の石田和久氏、雲崗の方はもうウンザリと、このほど大同市博物館の参観を希望。もともと華厳寺内にあったのだが、市区の再開発にともなって、同寺外側の建物に移転したという次第。ところが今次ツアーは4月上旬に設定のため、清明節(中国の墓参り)と重なって、当日は休館。歴史好きの石田老、さぞガッカリされたことでしょう。
旧博物館の方は、02年、ちょっと覗いてみたことあり。華厳寺は、その名のとおり華厳宗の名刹で、創建は11世紀、遼のとき。明代中期に上・下の2寺に分けられて、下華厳寺の僧房(?)に旧博物館があったわけ。収蔵品の大部分は、大同を中心とした地域の出土。大同歴史文物陳列・北魏出土文物陳列(写真)、石刻芸術陳列・遼代芸術館に大別される。
古いところは、人骨・石器・骨角器を展示する「許家旧石器文化遺址」コーナー。詳しくは、本シリーズ<2>、「今から10万年前、『大同湖』の岸辺では」参照のこと。
ついで、漢と匈奴の戦いのパネル。こちらは同<22>、「天下分け目の白登山」で歴史講談風の名調子(?)。
参観したとき、別室にて若い館員が土器洗いの作業中。市内の北魏墓出土の由。
展示物中もっとも興味をひかれたのは、北魏の太和八年(484)銘をもつ司馬金龍墓より出土した鉛釉陶俑。墓に入れる副葬品(明器)で、釉をかけた人形です。高さは15から40センチの間。騎乗3体・立人13体よりなる儀仗兵グループ、鎧に身をかためた武人、威風堂々たる騎馬武者は、フードつき長衣が特徴。寛衣をまとった文官、二人組み楽女が2セット。馬・牛・駱駝、骨を口にくわえた犬、その他。これらの陶俑には、黄・緑・濃褐色・褐色・黒の釉がかけてあり、なかには彩絵を加えたものもある。
そもそも冶金技術の発達につれ、金属酸化物が釉に利用されるようになり、戦国時代には瑠璃(ガラス)が出現。その瑠璃技術に刺激され、漢代には低温鉛釉の緑釉陶器も現れたが、それはまだ黄と緑の2色だけ。ところが北魏時代に至り、彩色は俄然多彩となる。おそらく西方からの影響でしょう。『北史』巻97「西域伝」の大月氏国の条に、
[北魏]太武[帝]の時、その国人、京師[大同]にて商販し、自ら能く石を鋳して五色の瑠璃を為ると云ふ。是に於て鉱を山中より採り、京師に於てこれを鋳す。既に成るに、光沢すなはち西方より来たるものより美なり。
と。大月氏は、そのころシルクロードにあった国。
「石を鋳して五色の瑠璃を為る」とは、彩色鉛ガラスを作るということで、司馬金龍墓から発見の鉛釉陶俑は、彩色鉛ガラスの釉を使っているわけだ。
見たときはホコリをかぶって煤けていたが、移転した先ではきれいにぬぐって展示のはず。石田さん、18回目のツアーの折には、ぜひご覧あれ。
(緑の地球133号 2010年5月掲載)