黄土高原史話<47>寒い冬がやってきた by 谷口義介
私事ながら、筆者が住んでいるのは滋賀県北部、琵琶湖と伊吹山に挟まれた地方都市。30年ほどまえ一戸を構えたが、文字どおり一階建ての陋屋(ろうおく)です。経済的事情もさることながら、生来の高所恐怖症とて、二階家だと屋根からの雪下ろしが恐ろしい。多い年には、優に1メートルを越すことも。視界が限られ恐怖感が薄らぐので夜に雪下ろしをするわけだが、平屋でも軒先近くでは脚がすくんだ。ところが、ここ25年ほどは、降った年でも約30センチ。家のまえの道路の除雪も、ずいぶん楽になりました。
個人的には有難いが、地球規模で考えれば、この温暖化、決して喜ぶべきことではないでしょう。温度上昇による気候の混乱・台風の大型化・海面上昇・生態系の攪乱・洪水や旱魃の多発・食糧生産の減少・伝染病や害虫の流行、などなど。
地球の平均気温は、1920年前後までは低かったが、60年代から上昇に転じ、80年以降はそれが著しくなった、と。原因は、地球の寒暖サイクルの<暖>に当っただけなのか、人為それも温室効果ガスによるものなのか。
アナール学派の影響もあって、歴史学の方でも、気候と人類史をからめて考える環境史が90年代から有力に。
約2万年前の最終氷期のあと現在まで間氷期が続いているが、そのあいだで繰り返されてきた小規模な寒冷化と温暖化。
原宗子『環境から解く古代中国』(大修館書店)は、古典に隠された環境問題をあぶり出した好著です。本シリーズと重なる部分も多いので、利用させてもらいましょう。
それまで暖かかった黄河流域では、前2000年ごろ寒冷化・乾燥化が始まるが、甲骨文には「象」が出てくるので、なお温暖といえるでしょう。そのあと徐々に寒くなり、毛皮のコートが出回るが、戦国から前漢にかけ、殷代ほどではないものの、再び華北は温暖化。ところが漢の武帝期以降、またまた寒冷化・乾燥化に向います。長安付近ではタケの生育が困難となり、竹筒に代ってヒョウタンが水筒のメインになったよし。三国時代あたりが最も年平均気温が低かった、と同氏はみる。
漢代まで、黄河が凍結したという記録は見当たらない。ところが、建安九年(204)冬十月、曹操は河北を攻めて敵を黄河に追いますが、このとき黄河が凍結し、船を進めることができません。そこで民を徴発し、氷割りの労役を課したのだが、河に入って氷を割るなどマッピラ御免と、みんな逃げてしまった、と。
ちなみに、甲元眞之『東アジア先史学・考古学論究』(慶友社)は、紀元前350年ごろよりあとでは、紀元後150年ごろを寒冷化のピークとする。つまり原説と甲元説では、極寒期が50年ほど違うわけ。
それはともかく、寒冷化・乾燥化が北方の遊牧民に牧畜生産の不振をもたらし、彼らは牧草を求めて次々南下、はては牧畜そのものを諦めて農耕地帯に侵入する。かくて生じた空白区を埋めるように、さらに北方の人びとが移動する、それが匈奴・鮮卑を初めとする五胡十六国時代の趨勢ではなかったか。
(緑の地球130号 2009年11月掲載)