E=mc²と言霊の力

言霊(ことだま)には、力が有るということですが、これは、どちらかというと文学的、右脳的、感覚的に言われているようです。
しかし、別の角度からも言えるでしょう。

それは、物理的、左脳的、論理的にも言えることです。
E=mc²
これは、物質とエネルギーが相互に変換可能であること。
具体的には、物体のエネルギー(E)は、その物体の質量(m)と光速(c)の2乗に比例するということですが、それでもよく分かりません。

物のエネルギーは、物の重さと同じであり、しかも、そのモノが持っているエネルギーの大きさは、とてつもなく膨大だということ。
これは、原爆や水爆で証明されている事。

しかも、ある物質だけが持っている特性ではないということのようです。
加工しやすく利用しやすい物質がウランだったりプルトニュームだったり水素だったりするだけのようです。詳しいことは分かりません。

翻訳の仕方で何事も違ってきますので、角度を変えた見方をしてみます。

要するにエネルギーとは何かという問題と、物質とは何かということ。
量子力学的にいうならば、全ての物には、波と粒の性質があるということ。波とは、エネルギーのように目には見えにくいけれど、現に在るもの。粒とは、それが目に見え易い形で表れている事。

陰陽学的に見るならば、紙の裏にあるものと表にあるものを、どちらから見るかの違いでしかないのかもしれません。お札、一万円札を例に持ってくると分かり易いかもしれません。表に10,000円と書いてあると、その価値を皆が信じれば、現実にその価値を活かして使うことが出来ます。しかし、その価値というか、そのエネルギーを支えているモノはどこにも書かれていないけれど、信用という価値は、現実に機能しています。
このことと同じことが言えると思う。

粒として、物として機能するモノは確かに在る。
そして、同時にその力は、見えないところに確かに在る。
それが無ければ、お札として存在しているとは言えない。
では、その力とは何かということを考えると、この法則は、単に「お金」のこととして語っているけれど、あらゆる物事に通じることだと思う。

見えにくい、分かりにくい波として見て、その波とは何かということを翻訳してみると、とても重要なことが分かって来そうなのだ。

波とは、エネルギーであり、パワーであり、念であります。
これは、質量的、量的な面での表現ですが、質的な要素も加わります。
情報であり、心です。
「ことだま」の力の色んな実験でも証明が可能なように、そのパワーの質が関わってきます。

言葉の出どころはと言えば、心です。心にも物理的な力が有り、言葉に出したり、文章に出すだけでもエネルギーは放出されますが、行動に移すならもっとはっきりします。要するに、心も、その思いも目には見えないが、とてつもないパワーを秘めているということ。

この現世界の中に、どんな波であふれているのか考えると、全ての存在から人から、植物から生き物たちから出ている波で、おそらくあふれているのでしょう。電波、電磁波などを考えるだけでも、この見えていない空間にどれだけの情報が流れて行き交っているのかと思うと、とても不思議です。

まさに、色即是空、空即是色です。
この空なる目に見えない世界に流れている波の本体というか、本流というか、メインとなっている最大の波が有ることを知る必要が有る。
釈迦牟尼仏がどこまで認識され、この言葉を残されたのか分かりません。仏教を伝えた人々も全てを悟っていたわけでは無いでしょうが、伝えるだけの理解はしていたはずです。

神々、創造主の波がメインに有ってこの宇宙が存在しているということ。
光という波が主体として存在し、それを基に全てのものが存在している。
光そのものの中に創造主からの情報があるだろうということ。
私たちの周りの環境も、これをメインとして、その地域独特の波が有り、その波の中に、私たち個人から発信されている波も加わり、粒としての現象が起きている。

ある意味、この場所に皆の波加え人生を作り、家庭を作り、社会を作り国家を造っている。この波と言う視点で考えると、神仏が出されている波と同調することが出来れば、その個別の力を強めることもできる。神仏の波と対抗するような波を起せば、弱められたり、荒れ狂った波ともなる。

地獄的な波動を起す存在が転生輪廻できずに、地獄という世界に居続けながら悪さをするのは、生れ変ろうとしても、その悪しき波動を出し続けているようだと、神仏の出されている波長とはそぐわないということだろう。その悪しき波動を出さないようにしない限り、天国の門は開かないし、生れ変ることなど不可能だということだろう。

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