世界観が、世界を二分する
唯物論・無宗教(左派)と、唯心論・有神論(右派)の二つの極が世界を二分する。言い換えるなら信仰無き者たちと信仰有る者たちの極に分かれる。
左翼と右翼に分かれるのではない。
この信仰については、あまり議論されることも無く、何をどのように信仰して、どれだけのレベルなのか問いかけることは少ない。
あなたは「信仰」を持っていますかと尋ねたならば、大半の人はイエスと答えるだろう。しかし、その対象が何であるか聞いたならば、おそらく、あやふやなモノが混じるだろう。
自分たちを越えた崇高なる存在、創造主であり至高なる神、その存在をどれだけイメージしているのかということだ。その思い、その願いを忖度して、自分自身の思いをそれに同調できるようにしようとしているのか。
そのレベル差は有るとしても、それが有ると無しとでは大きな違いが生まれてくる。
神を信じるか、それともそのような曖昧なモノは信じず、目の前に在る自分に関わりのある見えているモノを信じるかということだ。
神から発せられる光が有り、波が有り、その波動に自己の波を同調させようとするのか、それとも、自らの波だけで生きようとするのかの違いは大きい。この違いを生み出すのは、どのような「世界観」を持っているかに関わる。唯物論、無神論の場合は、どうしても現れている結果に意識が集中する。しかし、唯心論、有神論の場合は、神の意志を忖度するし、同時に自己の思いも深く考える。
要するに、図表に有るように左脳的な所に集中する人と、右脳的な所も同時に考えようとする人との違いだ。
大きくグループ分けをするならこの二つに分類されるということ。
神を信じている人と、そうでない人
左脳的にだけ優秀な人と、右脳的にも優れている人
頭が良いだけの人と、心も清らかな人
この違いが、グローバリストと反グローバリストを分ける。
ディープステートやネオコンがグローバリストたちであり、金融資本家や投資家たち、企業経営者の中で利益のみを考えて動く人たちである。
この違いをどうまとめればいいのかと考えると、どうしても左と右に分かれてしまう。やはり、「頭が良いだけの人と、心も清らかな人」と分けるべきなのかもしれない。
今、学歴偏重が過ぎて頭が良い人だけが重んじられている事の弊害が起きている。
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