見出し画像

ポール・ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』訳者解題(text by 倉方健作)

 2019年11月22日、幻戯書房は海外古典文学の新しい翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の四冊目、ポール・ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』を刊行いたします。
 本書はもともと1884年に刊行(1888年に新版)された、詩人ヴェルレーヌの初の散文著作にして、代表的なフランス詩人を世に問うた画期的な詩論です。トリスタン・コルビエール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメを論じた初版と、マルスリーヌ・デボルド゠ヴァルモール、オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン、「哀れな(ポーヴル)ルリアン」の三詩人を加えた新版を併せた、邦訳オリジナルの完全版新訳となっています。本書の最初で論じられる〝呪われた詩人〟のひとり、トリスタン・コルビエールの唯一の詩集である『アムール・ジョーヌ』(『黄色い恋』という邦題でも知られます)も、本邦初の全訳完全版として同時刊行いたします。
 以下に公開するのは、訳者・倉方健作さんによる「訳者解題」の一節です。是非この機会に、トリスタン・コルビエール『アムール・ジョーヌ』訳者解題(text by 小澤真)と併せてご覧ください。

画像1

「トリスタン・コルビエール Tristan Corbière」について
 トリスタン・コルビエールは、1845年にブルターニュ地方のモルレー近郊に生まれた。生涯唯一の詩集『黄色い恋 Les Amours jaunes』を1873年に自費で刊行したが世には認められず、完全に無名のまま三十年に満たない生涯を終えた。現世の栄光とは縁のなかった「呪われた詩人」の遺物――原稿、書簡、友人や知人の記憶――そのほとんどが早々に散逸したからといって、誰を責めるわけにもいかない。死後の「再発見」以降、一世紀以上にわたって丹念に拾い集められた小さな破片の数々をもってしても、詩人の生は今もなお「伝説」の領域に属している。その生の再構築は現在も途上にあり、未発表の写真・デッサンを含む貴重な資料が2007年6月に競売にかけられた。
 詩人の本名はエドゥアール゠ジョアシャン・コルビエールと言ったが、ヴェルレーヌが書くとおり、筆を執った彼は通名の「エドゥアール」を名乗らなかった。理由は比較的単純な推論が説得力を持っている。海洋小説家として知られていた父親が同じくエドゥアール・コルビエールと名乗っていたためである。しかしなぜ詩人の名が「トリスタン」でなければならなかったのか、その理由をめぐる仮説(円卓の騎士、ワーグナー、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』の影響など)はどれも決定的なものではない。「トリスタン」の語に原義の「悲しみ」を汲むことは当然可能であり、さらには名字と絡ませた言語遊戯――「肉体という棺のなかで悲しむ(Triste en [son] corp, bière)」、「棺のなかの哀れな肉体(Triste corp en bière)」など――を認める人々もいる。その一方で、コルビエールが彼の飼い犬にも、所有するヨットにも自身の筆名と同じ名前を与えたという「伝説」は、「トリスタン」の一義的な解釈を躊躇させるとともに、しかつめらしい推究に向けられた詩人の嘲弄と侮蔑、彼一流の微苦笑を垣間見せるかのようである。同様に『黄色い恋』というタイトルの解釈も現在まで議論の対象となっているが、「苦笑する」「作り笑いをする」の意味を持つ「黄色く笑う(rire jaune)」という慣用表現がおそらくその下敷きにあるとする点ではほぼ一致を見ている。
 ヴェルレーヌは、1883年初頭にシャルル・モリスに彼の名を教えられ、「リュテース」紙の主幹であったレオ・トレズニク(Léo Trézenik 1855‐1902)と三人で『黄色い恋』を読むまで、コルビエールの存在をまったく知らなかった。『呪われた詩人たち』で扱われる他の詩人は、存命であれ故人であれ、1860、70年代からヴェルレーヌがよく知る人物であったが、コルビエールのみは、連載が開始される年までヴェルレーヌにとっても完全に未知の詩人だったのである。この忘れられた詩人が一歳年下であり、自分自身がランボーとともにベルギーを放浪していた時期に『黄色い恋』が人知れず刊行されていた事実を知ったとき、ヴェルレーヌの驚きは大きかっただろう。モリスは後年、ヴェルレーヌは『黄色い恋』を初めて読んだときに笑い続けていた、そこに「魂の兄弟」を見つけたのだ、と回想している。
 したがって、ヴェルレーヌにとって『呪われた詩人たち』は、どうしてもコルビエールによって始められなければならなかった。そうでなければ第一集はランボーとマラルメという、自身の旧知の詩人を並べるのみに留まってしまい、そうなれば「呪われた詩人たち」の語は歴史的な普遍性を獲得できず、単なるルサンチマンと捉えられる可能性すらあった。コルビエールという、ヴェルレーヌ自身にとっても無名であったほど「呪われた」詩人を取りあげる必要があったのである。少なくともコルビエールの前では、ヴェルレーヌの立場は『呪われた詩人たち』を手にする読者のそれと大差はない。そこに示されているのは、読者よりもほんの少しばかり先んじた発見の喜びであり、ランボー、マラルメを語る手つきとはまるで異なっている。
 コルビエールについて書かれたヴェルレーヌの文章は、小さいが確実な反響を呼び、若い読者の幾人かは、既に一般の流通経路を外れていた『黄色い恋』を手に入れようと奔走したという。そのひとり、ジャン・アジャルベール(Jean Ajalbert 1863‐1947)は、まさしく『呪われた詩人たち』の連載中に『黄色い恋』がぞっき本としてセーヌ河岸で売られていたと回想している。なおヴェルレーヌも、『黄色い恋』を手元に置きたいと思いながら、なかなか入手することができなかった。モリスとトレズニクに譲ってくれるよう懇願したというが願いは叶えられず、彼らから借りうけて「トリスタン・コルビエール」を執筆したのである。ようやく彼が『黄色い恋』の一冊をヴァニエの尽力で入手できたのは、『呪われた詩人たち』の単行本の刊行とほぼ同時期であり、1884年4月8日付の書簡で入手をモリスに報告している。
『呪われた詩人たち』の単行本が刊行されたのとほぼ同時に、コルビエールの名は、ジョリス゠カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans 1848‐1907)による小説『さかしまに À rebours』の主人公が愛読する詩人のひとりとして、再び人の目に触れる機会を持った。夭折の詩人は、こうして彼の同世代にあたるヴェルレーヌとユイスマンスの追認によって、勃興しつつあった新たな潮流の知られざる先駆者として列聖されたのである。こうしてコルビエールの再評価は緩やかに始動したが、その声が届く範囲が限定的なものであったことには留意したい。現状においても、他の「呪われた詩人たち」に比べれば、コルビエールの知名度は一段落ちる。また、称揚されるコルビエールの美点、評価の方法も一様ではなかった。ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』からしても、コルビエール紹介の嚆矢としての価値は認められるものの、その分析は「ブルターニュ人」「船乗り」といった彼の「種族」を強調するものであり、イポリット・テーヌ(Hippolyte Taine 1828‐93)に倣った「科学的批評」の素朴な応用に留まっている。一方でユイスマンスは『さかしまに』においてコルビエールの詩句が持つ効果を壮麗な散文で語り、前触れもなく急変する「乱雑な言葉の堆積」を(好意的な意味合いで)「フランス語ではない」と断じた。この後コルビエールは、おそらく『さかしまに』を介してアンドレ・ブルトンの注目を引き、シュルレアリスムの先駆者を取り上げたアンソロジー『黒いユーモア選集 Anthologie de l’humour noir』(1940)においても言及されることとなる。
 日本語でコルビエールの詩篇を読む機会はごく限られていたが、『アムール・ジョーヌ』の邦題で全訳刊行が幻戯書房から予告されている。コルビエールの理解には詩集まるごとの再刊を望むしかない、とヴェルレーヌも書いていた。「呪われた詩人たち」のなかでも最も「呪われた詩人」らしいコルビエールの全貌が日本の読者にようやく明らかになることを喜びたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。本篇はぜひ、書籍で御覧ください。
★関連書籍トリスタン・コルビエール『アムール・ジョーヌ』の紹介はこちらを御覧ください。
【目次】

緒言 掲載の肖像について
I トリスタン・コルビエール
II アルチュール・ランボー
III ステファヌ・マラルメ
IV マルスリーヌ・デボルド゠ヴァルモール
V ヴィリエ・ド・リラダン
VI 哀れな(ポーヴル)ルリアン

 ポール・ヴェルレーヌ[1844–96]年譜
 訳者解題