第9話 物語と、俳優
『百花』という小説を、2019年に書いた。
それから一年後、菅田将暉から連絡が来た。
そのとき僕たちはコロナ禍のまっただなかにいて、会うことはできなかった。
電話で、30分ほど話し込んだ。
小説のこと、映画のこと、お互いの家族のこと、その記憶のこと。
そして映画『百花』が動き出した。
自分で書いた小説を映画にすることが、これほどまでに難しいとは思わなかった。
小説は、読者の想像力によって完成する。
例えば「世界から猫が消えた」と書けば、その世界を読者が頭の中で創り上げてくれる。
ところが映画において「猫が消えた世界」を映像化しろと言われたら・・・困ってしまうのだ。
小説を書くときは、映像にできないことを描こうと思っている。
『百花』における「記憶」もそうだった。
記憶というのは刹那で、曖昧なものだ。
同じ花火を見たとしても、人それぞれその覚え方は異なる。
どんなに親しい家族や恋人、友人でも、それが同じであることはない。
その曖昧さ、記憶の違いこそを、描きたかった。
けれども映画にするときは、そこにロケーションと音があり、俳優の肉体がある。
曖昧なものを、具体にしていかなくてはならない。
途方に暮れた。
自分の体験をきっかけに二年かけて小説を書いてきた。
伴走者の平瀬謙太郎が素晴らしい脚本にしてくれたが、自分の頭の中で凝り固まったイメージから離れるのがとても難しかった。
だからこそ、菅田将暉に演じてほしかった。
何度か仕事をしたけれど、いつも彼の芝居は予想がつかないものだった。
彼ならば、自分の脳内で固まりきった「葛西泉」の主人公像を一度壊し、共に再生させてくれると思ったのだ。
そして原田美枝子、長澤まさみ、永瀬正敏、などすべての俳優たちが「記憶」という曖昧なものを「肉体」に置き換えるという難しい作業を共にしてくれた。
俳優の肉体で記憶を表現する。
その時に彼らが纏う「色」について考えた。