経営に活かしたい先人の知恵…その58
◆才能があっても度量がなければ大事を成すことはできない◆
「孔子家語」に、「水、至って清ければ魚なく、人、至って察すれば徒(なかま)なし」とある。一点の誤りもないように厳しくチェックしていては、仲間は増えない。少しルーズで濁っていた方が、人も魚もすみやすいと孔子は教えているのだ。
中国古典、とりわけ儒教系の本では、厳格な教えが貫かれているように思われるかも知れないが、決してそんなことはない。どちらかと言えば、厳しすぎることの弊害を説いていることが多い。
後漢時代、北方の異民族・匈奴の勢力下にあった西域諸国を平定し、都護(地域の責任者)となって高い評価を得た班超という人がいる。おおよそ30年西域の都議を務め.退任した際の、後任・任尚とのやり取りが、実に示唆に富んでいる。
西域の統治法を問う任尚に対し、班超が「君の性格は厳格で性急だ。水がきれいすぎると大魚は住まないものだ。万事、寛大にして手軽にするがよろしい。さもないと失敗する」と教えたところ、任尚はひそかに人に向かって、「私は、班超には立派な策があると思っていたのに、彼の言ったことは、平々凡々極まりなかったのでがっかりした」と言い放ち、班超のアドバイスを受け入れなかった。結果、西域では乱れが起こり、任尚はお役御免になっている。
組織をまとめるためは、厳しさが必要なことは言うまでもない。しかし、厳しさばかりで息抜く暇がないと、人間は間違いなく疲弊するか、反旗を翻すかどちらかになる。
秦の歴史がいい例で、初代皇帝・始皇帝の統治法は、「手厳しく、事は法律によって決定し、人情ある温和さはなく、法を用いることに少しの仮借(大目に見る)もなかった」とされている。この厳しさが功を奏し、秦自体は成立(紀元前221年)をみたが、始皇帝の死後、僅か4年で崩壊してしまった。これはその厳しさが裏目に出たことによる。
始皇帝が亡くなった翌年、農民900人近く徴発されてある地方の守備に当たることになったが、赴任途中に長雨で道が塞がって進めなくなり、決められた期日までに赴任地につくのは不可能になった。秦の法律では、理由の如何を問わず、期日に間に合わなければ死刑。赴任地に着いたところで命はない。どうせ死ぬなら一旗揚げようと、農民仲間が放棄したことがキッカケで、秦は滅亡してしまったのだ。
秦は厳しく律することで国家が成立し、その厳しさが故に滅んでしまった。ここで心したいのは、多少の過ちには寛容になることだ。どんなに才能があっても完璧な人間はいない。相手の言行を受け入れる心の広さ、いわゆる度量がなければ、人の能力は活かせない。
「易経」には、「人の欠点を包みいれるだけの度量がなければ大事はできない」とあり、幕末の儒学者・佐藤一斎も、「才能があっても度量がなければ、人を包容することはできない。反対に度量があっても才能がなければ、事を成就することはできない。才能と度量と二つを兼ね備えることができないとしたら、才能を棄てて度量のある人物になれ」(『言志四録』)と、遺している。
いつの世にも、優良なリーダーには、度量(心の広さ)が不可欠なのだ。