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節分の豆まきに欠かせない「ダイズ」

利尿や解毒に用いられた生薬「黒豆」

2月には節分の行事があります。節分とは季節の分かれ目のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日は全て節分と呼ばれていました。しかし、「立春正月」の思想によって、1年の初めを立春とするようになり、立春の前日の節分だけが強調されるようになりました。そのため、1年の締めくくりの行事として、立春の前夜に豆をまく風習が生まれたのです。
室町時代に書かれた伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)の『看聞(かんもん)日記』に、応永32年(1425年)に「抑鬼大豆打事」という記述があるので、豆をまくようになったのは、室町時代と推測されます。
豆まきの源流は、中国から伝わった「追儺(ついな)」の儀式です。追儺は「鬼やらい」ともいい、疫病や災害を追い払う行事です。秦(紀元前221~206年)の時代に既に行われていたようで、日本には遣唐使によって伝えられました。『続日本紀』(797年)にも、文武天皇の慶雲3年(706年)に「追儺」の儀式が行われたという記録が残っています。
日本で豆をまくようになったのは、その昔、鞍馬の奥に住む鬼が人々を苦しめていた折に、毘沙門天が現れて7人の賢者を呼び、三石三斗(約600リットル)のダイズで鬼の目を打てと命じたという話が元になっています。鬼の目を打つので「魔目」といい、「魔滅」に通じると考えられたのです。
この時に使う豆は、必ず炒らなければなりません。これにも鬼の言い伝えが関係しています。その昔、佐渡島に人々に害を与える鬼がおり、鬼退治にやってきた神さまが鬼との賭けに勝つと、鬼は悔しがって「豆の芽が出る頃来るぞ」と言って退散しました。そこで、神さまは豆の芽が出ないように、豆を炒るように人々に命じたのです。
豆まきの豆は「福豆」といい、節分の夜に年齢の数より1つ多く食べます。翌日の立春で1つ年齢を重ねるので、来年の分も食べるのです。
節分の豆まきに使うのはダイズですが、最近の豆まきは落花生をはじめ、さまざまな食べ物が代用されています。時代が変わっても、伝統的な行事の意義は忘れないようにしたいものです。

ダイズの起源は中国東北部、黒竜江沿岸といわれ、4000年前から栽培されていました。その頃は「菽(しゃく)」あるいは「菽荏(しゃくしん)」と呼ばれていましたが、1世紀前頃から「大豆(たとう)」と呼ばれるようになりました。
日本には約2000年前に渡来し、「おおまめ」と呼ばれていました。7世紀を過ぎて中国との往来が盛んになると、漢音の「大豆(たとう)」の呼び名が、呉音の「ダイズ」に変わっていきました。
ダイズの記録は『古事記』(712年)に記載がありますが、栽培が始まったのは鎌倉時代以降で、その頃からさまざまな食品に応用されるようになっていきました。
ダイズは畑に広く栽培されているマメ科の1年生草本で、高さ60センチほど、茎は直立しており、全株に淡褐色の祖毛があります。葉は互生、夏に葉腋から短い穂を出し、小形の紫紅色または白色の蝶形の花をつけます。豆果は平たい線状楕円形で祖毛が密集して1~4個の種子を生じます。種子(豆)は黒色(クロマメ、クロズ)、淡褐色、緑色、黄白色など多様です。

古くから歌題の対象になっていましたが、節分とダイズの関係を読んだ詩歌はそれほど多くありません。

年々に 大豆(まめ)算用や 節分(せちぶ)の夜

貞頼

節分の 豆にまじろぎ 檻の鷲

加藤 楸邨

日本名は漢名の大豆の音読みで、学名はGlycine maxです。属名はギリシア語のglycys(甘い)の意で、大豆の味に由来します。
ダイズには黒豆、赤豆、青入道(青大豆)、エンレイ(白大豆)、納豆小粒など多くの品種があります。
日本のたんぱく源として重要なダイズですが、世界の生産量の60%以上をアメリカとブラジルが占めています。日本の生産量は世界の0.1%程度で、消費量の95%は輸入に頼っています。
薬用としては、生薬名「黒豆」または「黒大豆」といい、利尿や解毒に使われてきました。
花言葉は、「必ず来る幸」「親睦」です。

出典:牧幸男『植物楽趣

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