〜幻界空想のご紹介〜
幻界空想(げんかいくうそう)ではAI生成されたキャラクターイラスト画像と共に、その人物たちの生きる世界観や背景を趣味のかたちで公開しています。キャラクター設定や世界観はすべて当方のオリジナル空想です。
この活動は「空想(妄想)の入り口へ、記事をお読み下さっているあなたをお招きしているに過ぎない」と、そのように考えております。
キャラクターたちの生きる世界が存在していることに併せて、ご自身でも画像から見て感じられる空想、妄想をお楽しみいただければと考えております。
こちらの記事では『幻界空想』の活動目的や趣旨、AIイラストに関する考えなどを、自己紹介のかたちを取りながらお話し出来ればと思います。
◆幻界空想の目的
⚫︎空想の限界を楽しむ
幻界空想は、”限界まで幻想を空想する”という想いを込めた名前です。
「幻界」は「限界」という言葉に幻想(ファンタジー)の”幻”の字をあてて「幻界」としています。
私は自分自身でも絵を描きますが、そちらとは別にnoteではAIイラスト生成と自身の空想を合わせて掲載することを趣旨としています。
AIイラスト生成は主に Holara AIを中心に活用させていただいております。
画像と併せて空想の登場人物たちの世界観や設定を掲載するのは、「そう見る」と広がる考え・妄想・空想、そしてそれらを楽しむ…そんな場所にしたいという想いが行動のきっかけになっています。
noteの他にもTwitter(現 X -エックス-)やYouTube、LINEでのスタンプ化などを通しながら、私自身も空想とAIイラスト生成の時間を楽しむことが出来る環境を前提に準備を整えました。
基本的にnoteでは多くのAIイラスト画像を無料記事にて公開していますが、一部の限定画像やプロンプトは有料記事として掲載を行っています。
これは無料記事にて公開している内容にプラスアルファをした、オプション特典的な立ち位置のものであって、利潤獲得を本来の目的としているものではありません。
また無料で公開されているAIイラストによる空想も楽しみつつ、オプション機能として購入出来るコンテンツを増やすことで、幻界空想と読者のみなさんとで、最終的な”持ちつ持たれつの関係性”を築いていきたいという意識が根底にあります。
上記3枚の画像は、その下に記載をしているポジティブとネガティブのプロンプトを使用して生成されたAIイラスト画像です。
本来はもっとアングルやカットの雰囲気を調整させていただくのですが、今回は参考例として3枚を連続して生成したものを掲載させていただきました。(本記事や世界観などのご紹介を目的とした一部記事では、無料記事範囲内に掲載された画像についてのプロンプトが未記載のもがございますが、通常は記載を行うものとしていますので例外的なものとなります。)
読者のみなさまには記載された生成プロンプトをコピペなどしていただき、簡単に絵柄や雰囲気が酷似した画像を出力していただくことが可能になっています。(アイデアにリンクした表現の具体化のすべては当方に著作がございます。)
幻界空想では Holara AI を使用して生成を行なっている為、プロンプトの形式もそちらの仕様に準拠しています。※生成はあくまでランダムな為、全くの同一の画像が出力されることを保証するものではありません。
活動初期段階では『DiROOK(ディーローク)』という物語を中心とした登場人物たちのAIイラスト画像を掲載しておりますが、今後さらに多くのジャンル、個性的なキャラクターたちが登場する予定です。
プロンプト掲載といういわゆる 呪文 の共有は、AIイラスト生成が活性化されて以来、個人やサイト間で多くやり取りされているものでもありますが、こちらでもそれらの踏襲を意識しています。
⚫︎活動方針
私は現在フリーランスにて、クリエイティブに関わるお仕事を生業とさせていただいておりますが、”利潤”というのは必ずしも表現に必要なものではないと常々考えています。しかしエンターテイメントに関連する活動を長期的に維持するうえ、そしてそれで食べていこうと思う場合には、利潤も視野に入れる必要があるという点も理解しています。
幻界空想の一部にビジネス的要素を含ませる具体的な考えとして、そうすることで長期的な活動を現実的なものとし、さらにそれをプラスアルファの位置に置いたバランスとすることで、読者と幻界空想がどちらも無理強いをすることなく画像の閲覧、空想を自然なかたちで楽しめるようになる、というものがります。
安定していて、良好的な雰囲気の場には、相応の柔軟なアイデアと空想が生まれてくるものだと思うところもありますね。
世にはイラストやアニメ、映画、小説など、様々な”空想”を元に生み出された作品とエンターテイメントがございますが、幻界空想は粛々と空想のきっかけになるような発信を、完全な趣味の範囲で行なっていくものです。
こちらは私にとっての本業ではございませんので”自由”を常に意識し、自信に強制や縛りを感じさせない前提で更新を行なっていく方針です。
幻界空想の活動は、これまで私がクリエティブのお仕事に携わってきたノウハウ、考えなどがふんだんに盛り込まれており、それはいまも成長を続けています。
その為、活動を行なっていく上で色々な変化はあると思いますが、初心である「限界まで空想を楽しむ」という想いは決して揺らぐことが無いよう、空想の世界をひとつひとつ丁寧に、かたちにして行くことが出来ればと思います。
◆AIによるイラスト生成という進化の印象
⚫︎イメージを見える化することが出来るひとつの手段
私はAIイラスト生成との出会によって、空想の中にいる登場人物たちをより多く、短期間の間にイラスト化して目の前へ召喚させることが出来るようになったと感じています。それは私にとってはとても楽しいと感じられる瞬間です。
私は人生経験として絵の勉強をいくらかのお金を掛けた上で行ってきた経緯があります。(主に漫画や挿絵のイラストを描くことの学びでした。)
現在は絵とは違う分野のクリエイティブ関係のお仕事をさせていただいておりますが、いまも絵は大好きで趣味の範囲で描いています。
当時AIイラストの進化がここまで進んでいたら、自分の描く絵に対してももっと違う印象を抱いていたことでしょう。AIによってイラストの生成が可能という環境を目の当たりにしたとき、本当に大きな衝撃がありました。
AIイラスト生成は、ここ近年で急速に成長を遂げましたが、同時に様々な物議も醸し出しており賛否両論の声も聞こえてきますね。
ですが元々”絵の表現”というのは金銭的な事情などを抜きして考えた場合、もっと純粋な頭や心の中にあるイメージを絵におこす、という自らの表現の一環です。しかし絵で自分のイメージや表現を具体化したいからといって、必ずしもみんなが絵を描くのが得意と感じているわけではありません。
絵を描きたいと思った時、それは自分の為なのか、人の為なのか、これは最初に考えておきたい点です。何故なら『絵が得意では無い=絵が描けない』ではないからです。絵は誰でも描くことが出来ます。そこに他人の評価を加えるかどうかによって”絵の得意不得意”の話に切り替わるかどうかでしかありません。
ここで先に「絵と表現、そして絵心とは」という点について、私の考えを簡単に、少しだけお話していこうと思います。
”絵が得意では無い”という方はほとんどの場合「自分は絵心が無い」と仰り、絵を描くことそのものにチャレンジしないことがあります。私はそう言った話になったときにはいつも「絵心なんて必要ない」とお返事してきました。正確に言えば”必要な場面もある”のですが、表現の根本的な部分ではまず何よりも一番大切にしなければいけないのは「絵心」ではなく「何かを描きたいという心や感情」だと思っています。
心に生まれた感情は、やがて衝動に変わっていきます。心は日々の練習で養われるというよりも、見て、感じて、記憶して、交換神経から感じられる、あのある種の刺激によって磨かれていくもので、もっと純粋な人間の遺伝も関わってくるような源泉な部分での『表現したい意欲』であるはずなので、絵は描こうと思えば誰でも描くことの出来る、誰にも許された楽しいエンターテイメントです。
子どもの頃、公園の砂場や家の壁に落書きをした、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。まさにあのような行動が表現のスタートであり、他人の評価を気にしない純粋な表現の最初のかたちなのだと思います。
「絵心が無い」と仰る方は、すでに最初の地点から”他人の評価”を考慮している場合があるのですが、本当に絵が描きたいのであれば、まずはじめに”何を描きたいのか”、”なぜ描きたいのか”を大切にしないと、せっかく心の内に生まれた意欲が”絵が得意ではない=絵心が無い”、という理由で失われてしまうことに繋がります。
もっと具体的な例え話をすれば、歌を聴いている時に思わず鼻歌で合わせて歌ってみたり、一緒に踊ってみたりすることもあるかと思います。絵を描くというのは、ジャンルは違えどそれらと同じことであると考えることも出来るのです。鼻歌を歌うとき、それが人に聞かせるものではない自分の為のものであるならば、ある程度の細かな音程やビブラート、抑揚などは気にしないということもあるでしょう。それは歌の練習とは違い、そして誰かの評価を求めているわけではないからです。自分の気分が高揚したり、気持ち良くなったり、心を豊かにする行為であり、これもまた絵を描くということにもいくらか通ずるお話だと思います。
純粋に”絵を描きたい”のであれば、それが自分の思うような形ではない、自分から見たときに不恰好だと思うものでも、自らの表現である以上、自分自身の行動から生み出した作品、もしくは表現に違いはありません。
「自分は絵が下手」と思う方は、理想と現実にギャップ差を感じてそう思い込んでいるだけという場合もあります。
「もっと〇〇にように上手に描きたいんだ!」と思ったり、現代で”上手い”と評価される絵に近づくことは、継続や努力を重ねることである程度は実現可能です。5分だけでも真剣に取り組んで絵を描いたのであれば、明日はその5分間の経験が自分の中に積み上がります。”描く”という動作の中には、色々な試行錯誤や考える時間、身体で覚える感覚なども含まれ、それが次の挑戦の機会に必ず活きると言っても過言ではありません。
それを半年もしくは1年でも続けると、当然絵の内容にも変化があることでしょう。つまりは筋トレのようなものです。そしてそれがどんどん自分のものになっていくと、個人の感性やセンスで多岐にわたって表現力が変わってくるのです。
本来”表現”において大切なのは伝えたいという自分自身の想いやその魂が込められているか、なのです。
また絵にはたくさんのジャンルのようなものがあります。対象では人や物、背景、動物、表現方法ではリアリティなものからデフォルメ、不可思議な世界、油絵、水彩、シンボル、ロゴ、アニメ、漫画、画材では絵の具、筆、鉛筆、クーピー、パステル、墨、ボールペン、色鉛筆……、「描く」という行為をひとつ取っても方向性は様々です。どのジャンルで自分の納得のいく表現が発揮されるかはやってみないことにはわかりません。好みで選ぶ場合もあると思います。好きな絵と自分が表現出来る絵は、想像と全く異なる場合があります。”表現”は挑戦してみないとわからないことが多いです。
いずれの表現方法を選ぶにせよ、絵をお仕事にしているかしてないかに関わらず、絵を上手く描きたい、上手に表現したい、と思う方も多くいらっしゃると思います。私もそのひとりです。
しかし
ここまでお読み頂いた方の中には「こうした考え方があるのは理解している」「絵を見たりするのも好き」……、「でも”絵を描くことは特に好きではない”」という方もいらっしゃると思います。表現をしたい意欲はある、でも絵を描くことへの挑戦の意欲は尻込みでは無く、そもそも湧いてこないという場合もあると思います。
このあとも続けてお話しをしますが、AIイラスト生成はそんな想いに寄り添うものとなってくれているかもしれません。
もう少し「絵と表現、そして絵心とは」という点についてお伝えしようと思うことがあるので、先にこちらのお話をし終えた上で次へと繋げていきたいと思います。
私は自らが描く絵も、AIによって生成するという描き方も、どちらも大切にしています。
自分で絵を描くことは、AIでイラストを生成した際にも必ず”感性”という部分で良い働きをしてくれます。例えば生成されたイラストを見て「違和感」を感じられるようになる、などです。もっと具体的に言えば、パッと見た段階では絵も綺麗かもしれないけれど、よく見てみると指の位置が不自然になっている、などそうした点です。
簡単な参考として画像でも見ていければと思います。下記の画像はAI生成したイラストです。
1枚目はとても可愛らしいイラストに仕上げられているように見えますが、右脚のふくらはぎより先の繋がりが不自然なことになっています。
2枚目についてはもっとわかりやすい不自然な画像です。
正面のポット?マグカップが浮いている状態になっています。
もちろん絵を描かなければこうした点に気がつけない、ということではありませんが、構図に対しての考えや判断は自分で”描いたとき”をイメージ出来ると、より具体的に思考することが出来ると思います。
自らが描く場合、柔軟性がありより細かな表現を自由に行うことが出来ますが、取り組む時間が相応に掛かってきます。対してAIイラスト生成は表現はプロンプト依存となり、表現の自由は融通が効かないケースも考えられますが、自ら描く場合よりも遥かに速い時間でイラストを完成させることが可能です。
どちらにもメリットやデメリットがありますね。(生成の為にサイトを使用する際はお金が掛かる、という点に差を感じこともあると思います。しかし自らが描く際も画材にお金が掛かるので、一概に”差”とは言い切れません。)
仮にこちらをお読み頂いている方が、特に理由はないけれど絵をまったく描いたことが無いという場合には、私は是非挑戦してみて欲しいと思います。
絵は最初は誰でも「描いたことが無い」から始まるからです。
それは誰でもそうであると断言出来ます。絵を描く為に生まれてきたような人間はいるかもしれませんが、絵を描きながら生まれてくる人間はいないからです。つまりは誰にとっても挑戦は”ゼロ”からのスタートなのです。
自転車に乗れるようになる練習と同じように、コツコツ続けるからこそ磨かれるものもあると思うので、言ってしまえば「絵心ははじめは無くて当然」なのかもしれません。
表現は自己満足なくして始まらないものだと考えています。
私はAIイラスト生成が可能な環境下では、絵を描くことのスタート地点は有意義に感じる場所からで良いとも思います。
”AIイラスト生成から始めてイラストを世に出す”というスタートを切ってから、後になってそれらを参考に自分でも絵を描くようにしても良いのです。たとえ自分自身のことであっても「絵を描きたい」という意欲は、どのようなアプローチで湧いてくるかはわかりません。
”絵で表現をしたいけれど、絵を描きたいわけじゃない、もしくは時間がない”など、AIイラスト生成はどうしてもそんな悩みを捨てきれない方にとって光明となるツールであると思います。
そして、ここまでお話した考えと併せて、「絵心が無い」と仰る方に続けて伝えるのは「絵心が必要な場面もある」ということです。
それは金銭・利潤の発生、もしくは利益はなくとも表現によって(現代で言えば)SNS、もしくはネットを介さない場などで人気を獲得することを目標とした”エンターテイメントにおける表現”の場合です。
絵を描いて誰かを感動させたり、目を引かせたり、時にはメッセージを伝えたり、シンボルで象徴やイメージを伝えたり……相手ありきの表現の場合には「相手に伝わる絵心が必要」になることもあります。もし請負う仕事であれば、クライアント様のご要望に応える力を”絵心”ということもあるでしょう。
純粋な表現として絵を描きたいのか、お仕事として絵を描きたいのか、同じように絵を描きたくても目的意識によってその行動への印象は変化し、挑戦する意欲の度合いにも影響してきます。
私は絵を描くという行為の好き嫌いはともかく、人の数だけ表現のかたちは存在すると思っています。
そしてAIによるイラスト生成とは、その無限に広がる人間の可能性の一部からデータとして絵を学び、それをプロンプトに従って出力しているに過ぎません。
人間は機械ではなく、そして一律の安定性があるというわけではありません。絵が得意な人が必ずしも表現したい世界があるとは限らない、そのまた逆も然りで表現したい世界があるからといって、必ずしも絵を描くことの努力を頑張れるとは限らないのです。もしかすると表現したい世界がある人は、それを絵で表現することに向いていないだけという可能性もありますが、少なくとも当人が「この頭の中にある世界を絵の勉強は頑張れないけど、絵で表現したいんだ!」と思った時、AIイラスト生成というのは、その望みを叶えてくれるツールなのではないかと感じるのです。
ここまで何度もお伝えしているように、絵を描きたいことと表現したいことはまったくの別ものです。
だからこそ絵を描く前には、自分の純粋な想いや心を大切にするので良いのだと感じています。
AIイラスト生成は発注のようなものだと思います。
生成する人間をディレクターと言ってみるとわかりやすいかもしれません。そしてAIというイラストを描く人がいるとしましょう。プロンプトは発注書です。
「〇〇のような絵が欲しい」と自分がディレクションします。AI生成ツールを活かして、AIという存在にイラストを描いてもらいます。その為の発注をプロンプトに書き込みます。出来上がったものを見て、自分がそれで良いか否かを判断します。
こうしたように考えると、まさに世の中でこれまで「表現を形にしたい人」と「絵を描く人」とで分かれて、ひとつのものを完成させてきた構図とまったく一緒であることが見えると思います。
AIイラスト生成は、こうした構図がより一般の人にとっても身近になった、そうして考えることができ、まさしく”自分のイメージをより身近に見える化出来るようになった”ということなのでしょう。
表現”すること”と描”くこと”はその行為としてワンセットですが、これが意欲という観点からみた、表現”したい”と描”きたい”は別のものです。(とても回りくどいですね。でも物事の考え方には大切なことが詰まっていると感じます。)
AIはディープラーニングによって技術的な観点を学んでいるので、その元となっている表現の数々への感謝を決して忘れてはいけません。(現状はこのあたりも議論の的にもなっているかと思います。)
人間 VS AIという双方の絵心を計るようなそんな不毛なことをする必要はありませんが、人間もAIもどちらも絵を描くという行為には、それぞれの魅力があると私は感じます。
⚫︎意欲と研究の連続で生成を突き詰める。
AIイラスト生成は「絵を自分で描くモチベーションを得られないけど、頭の中にあるイメージをAIが綺麗に表現してくれる」ということで、好印象を抱いている方もいらっしゃると思います。
ある種のスイッチ一つで綺麗な画像が出てくる(世間の物議や倫理についての議論はひとまず置いておきますが)、これはとても凄いことです。
しかしAIイラスト生成も近未来的なテレパシーで表現できるのかというとそうではありません。
望んだ通りの綺麗な画像を出力させようと思うと、プロンプトによる呪文の構成がとても重要になってきます。つまり人力での調整が必要です。
間違いなくペンを操って絵を描くこととは異なるので、プロンプト構成を面倒と思うか思わないかによって、AIイラスト生成を楽しめるか否かは分かれてくることでしょう。
私はAIイラスト生成を始めて1ヶ月と少しが経過しています。
こちらの記事のこの地点を書いているのは2023年9月29日 17:02頃なのですが、Holara AIへのお支払い(AIイラスト生成を本格的に開始)を確認すると8月11日付けと最初の記録があります。
単純な”面白い”という気持ちからイラスト生成を開始し、幸いにも初期投資的費用についてはHolara AIの料金システムの形態も相まって、そこまで深く腕を組んで考える必要はない状況でしたので、今日まで25,319枚のイラストを生成してきました。
同時にAIイラスト生成における基礎中の基礎を学び、比較的思い通りに近いイラストを生成するにはどうすれば良いのかということを研究し、また効率良く生成を行えるようにGoogleのスプレッドシートへ、使用した呪文やよく使う呪文をまとめながら、加えて幻界空想が今後noteなどを通してご紹介していくことになる登場人物のまとめを行ったりしてきました。
AIイラスト生成も突き詰めれば突き詰めるほど実は難しく、それでいながらしっかりと人の好みも如実に現れます。生成に挑戦している多くの方のイラスト、プロンプトを拝見させていただくと、個人的な感性や趣味嗜好、良い意味での性癖が顕著に出ていて、大変奥が深いものであると実感します。
自己満足を超えた”表現”として絵を生み出す場合、AIイラスト生成であろうと、自身の手や足、口で描く場合であろうと、共通して大事にしていかなければいけない点は『イラストの構図』にあると思います。
AIで生成する場合はプロンプト、実際に自身で描く際にはそれぞれ画材が必要になってきますが、その描くまでの工程は違えど、目指すところは『完成』という同じところなので、最終的に出来上がったものが自己表現を満たしているのか、そこに繋がっているのかという部分は、どちらにせよ自ずと確認することになります。
自己満足の表現であれば主観の感性で良い悪いの判断も出来ますが、ここに”見せる”という客観的な要素を加えていく場合には、仮に出来上がった作品を見て「これで良いのか?」と考える時間も生まれてくることでしょう。(自分の好きなように絵を描いて、それが人に自然と受け入れられるというカリマスマ的ケースもあるかと思いますが、客商売をする場合においては、どこかで”人の目に映ったときの印象”を考慮している場合がほとんどだと思います。)
クリエイティブ界隈では良くあることですが、仮に”美しい”ものを表現しようした場合、結果的に自分で生成したもの、もしくは描いたものが”美しいのかどうかがわからない”という思考に陥る場合があります。
文字に起こしてみるとおかしな話であると改めて感じますね。しかし実際、客観的な視点を意識するとはそういった迷路に入り込んでしまうことでもあります。それは真剣に向き合い、段々と突き詰め始めて「感動して欲しい」という想いが生まれているからこそなので良いことではあるのですが、AI生成でも自ら描く場合でも「感動に直結する」構図や完成したものに対する”感覚”とは、最終的に人間に委ねられるものなので”構図によって伝わる感動への意識”は、表現の過程が異なっていても大切にされるものだと思います。
先ほどのトピックでご紹介した、下記の画像などがまさにそうであると言えます。
自ら描くにせよ、AI生成するにせよ、私もまだまだ成長を続けている途中であり、学ばなければいけないことだらけです。
⚫︎主観と客観と価値
私は現在のところHolara AIを通して、AI生成そのものに肯定的な意見を持ちながら、自身の空想を昇華させる手段のひとつとして活用しています。
私がイラスト生成しながらふといつも考えているのは、”AIイラストの美しさや、人がそれを見た時に起こる感動に価値があっても、私の空想そのものに価値があるのかはわからない”ということです。これは不思議と同義ではないものです。
みなさんも「絵は綺麗だけど、ストーリーが面白くない」やその逆の思いなどを、エンタメを楽しむ上で感じたことはあるのではないでしょうか。世にあるすべての作品が万人向けと言い切れないのと同じように、観る側・楽しむ側の感性も様々なので、人によって作品の価値という部分には差があります。
こうした考えが根底にあるからこそ、私はここnoteでの活動を”空想×AIイラスト”というようにしつつ、その中でも設定などのバックボーンを優先的にAIイラストと一緒に掲載するようにしています。
私は小説家志望でなければ、noteで自分自身の物語を発信することに趣旨を置いているのではなく、あくまでキャラクター設定厨(自分で言うのもですが)として活動したい望みを叶えているに過ぎません。その為、キャラクターにとって”物語”は重要であると理解しておきながら、幻界空想のいまの形を作っているところがあります。
これは決してネガティブな思考ということではありません。自己表現とは時代、そして作品と出会った人々、さらにはタイミングなどなど、あらゆる要素の総合的な背景の中で最終的な価値が生まれるものと考えているからです。これを『運』と表現する方もいらっしゃいます。
例えば「時代が追いついていなかった」とか「早すぎた才能」とか、”言葉”であれば「そのネタは古い」「死語」なんて言い方を聞いたことはないでしょうか。役者で役のオーディションを受けたことがある方であれば、一緒にオーディションを受けていた方の影響力が強過ぎた、もしくは自身の方が強かったので審査員の印象に残ることが出来たなど、これもまたある種のタイミングの問題がいくらか含まれているかと思います。
”価値”とはこうした細かな要素を絡めて、最終的に人の印象に根付いていくものと考えます。(もちろんすべて極端に、一概に言い切るものではありませんが。)
私はクリエイティブ畑の人間なので様々な表現を目にしてきました。突拍子もない表現、見せる相手に媚を売った表現、自分を良く見せようとする表現、人がエンタメであることを忘れて没頭出来る表現、場の空気が一瞬にして変わるような引き込まれる表現、その多くを目の当たりにしてきました。しかし、これはそうと見るか否かの意識の問題であって、アニメや映画、歌など、みなさんも日夜目にしたり、耳にしているものでもあるでしょう。私はその中でも、さらに穿った見方をしてきた……、そうでなければいけなかったという経緯がございます。
世の中のエンタメは新聞やネット記事に載っていることが、全てではありません。それと同じように世間的なフォーカスは当たってはいないけれど、自分自身が納得して、毎日の人生を幸せに自分らしい表現で生きている方も大勢いらっしゃいます。
昨今はSNSなどによる”数字”で、その影響力の強さや印象を判断するというイメージも定着している世の中でもありますが、そうしたことに気を配りながら活動する人もいれば、逆にまったく気にせずに表現の世界を純粋に楽しみながら生活されている方もいます。
つまり表現の価値は、主観と客観によって大小様々な形で成り立っていると考えられるのです。時には群集心理が働いた結果、価値が生まれることもあるでしょう。
こうした考えから私は「全力でやった結果、成るように成る」という気持ちで日々の活動に邁進しています。
自分の表現や感性、空想に価値があるかどうかはわからない、でも自分が「やってみたい」と思ってはじめたことには、どんな結果になっても全力で取り組もうという意識です。
こうして文章を綴ってみなさんにお読みいただいているように、私が最後まで書き上げてやり遂げることが出来ているのであれば、それは自分自身のやる気と行動が成し遂げたひとつのゴールです。そして納得いく形で、そこに全力を投じたのであれば、決して後悔したり、無駄だったと思うような気持ちは生まれる隙もありません。
記事そのものが一人よがりや、自分の考えをただ羅列しているだけ、もしくは誰かの考えの刺激になった、参考になったかは、私が読み手のことを考えながら書いた結果、読み手の方がどう受け取るか…というところに委ねられるものだと思っています。
もちろん人様に迷惑を掛けないという大前提の元でのお話ですが、自分のやりたいことを全力でやった結果がそのまま達成感に繋がれば、そこには大なり小なりの価値が生まれてくれるものだと思いますし、結果は後から付いてくるものだとまさに考えています。
結果の大小については自分の頑張りと併せて、先ほども言ったようなタイミングの要素も含まれます。
例えを出すとわかりやすいと思いますが、「Aの商品とBの商品、同時期に発売されてなければ、世間的な評判はどちらも良いかたちで得られていたはずだったが、同時期に重なったことでAよりもBの方にフォーカスが当たり、Aの売上は伸びず、Bは好調であった。」などです。
しかしこれを詳細に考えて立ち回っていくということは、それはもうマーケティングの分野に入り込んでいると言えるでしょう。
私はnoteにおいて有料記事の掲載も行なっておりますが、あくまで有料コンテンツはオプション特典であり、利潤獲得、売上を出すなどが目的の活動ではありません。
エンタメ業界、また活動においては”結果”を出さなければいけない、ということもあると思いますが、すべての物事を結果通りに出すというのは、未来を見ることが出来なければ完全に行うことは出来ません。その為、いつもそこにあるのは”予測や予想”だけであり、私はその予測や予想を抱きつつも自分の心を左右されることなく、ただその時に出来ることを全力を投じてやり切り、その後の結果を待つ……、というようにしています。そして私はこれが一番、自分のパフォーマンスを純粋かつ最大限に発揮してくれるものだと思っています。
私はそれで十分だと感じています。むしろ今こうした発信が出来ること自体に、そもそも感謝しなければいけないとそんな風にも思っています。
利他的・利己的なバランスは非常に難しいものですが、充実感はまず自分が最初に得るべきであり、楽しいと思えなければ、何事も長続きしないのではないかと思います。
”誰かの為を一番に考える”という意識も大切かもしれないですが、何よりも”長期的に活動をする”というのが、エンタメ活動における最大の幸福であると感じます。
人にはそれぞれやり方があるかと思いますが、”自分の納得いくかたちでの活動”が何よりも価値を生み出しやすく、最適な環境だと思います。
私も「少しでも誰かの刺激や感動に繋がったら良いな。」と思いつつ、「ならなくても続けることで得られる充実感がある。」と思っています。
たとえ予想した結果に至らなかった場合でも、それはひとつの経験とある意味では失敗であり、そこから人間は学び、試行錯誤、フィードバック、ブラッシュアップ、ステップアップ、トライアンドエラーなどなど……、様々な言い方がありますが、”成長の機会”に繋げることが出来るので、なにひとつ無駄なことはありません。
私はこうした考えをそのまま幻界空想という活動を送る上での、AIイラスト生成との関わり方、そして在り方としています。
主観と客観の価値は必ずしも一致するとは限りません。
だから少しでも人が感動してくれると予測・予想をしつつ、全力を投じる……、いまの私は、これに尽きるのです。
一生に一度の人生です。毎日に少しでも多くの嬉しさを感じる為、私はこのクリエイティブ活動の一環を、自分らしく大切にしていこうと考えています。
AIでイラスト生成可能という時代に想うこと
⚫︎挑戦はしないよりした方が良い
AIイラスト生成はいまも新しい発見がなされ、情報の流通に目が光ります。
しかしポジティブな意見がある一方で、ここまでお話した中にもあったように、どうしてもAIイラスト生成に対して懐疑的な意見が生まれてしまい、それが物議を醸し出すことになるケースも否めません。
物事はすべて表裏一体のバランスで保たれているので、どのようなことにも必ず表と裏やメリットとデメリットが存在します。
生と死、光と闇、幸せと不幸、成功と失敗、獲得と喪失、希望と絶望、創造と破壊、現実と空想…。
このように物事は相対的な対比よって印象が変わり、それにより人間の心には感動が生じます。ここでの感動とは「感じて動く」ということであり、それがポジティブかネガティブに寄るかは状況次第です。
私はAIイラスト生成を一番最初に行わせていただいた時、全面的にポジティブな方向へ感動しました。だからこそ肯定出来る部分も多いのだと思います。
また容認出来る一番の要因として、私が送っている人生では”絵による表現”を完全に趣味と割り切れることにもあると思います。
私が今日こうしてこの文章を書いて幻界空想のご紹介をしているのは、私自身がやってみたいと思ったことが何よりのきっかけです。
これを大きなビジネスにしたり、ましてやAIイラスト界隈に影響を与えていくという目標や、いわゆる殊勝な思いは出発地点から何も準備していません。
純粋にやりたいと思う気持ちを行動に起こしています。幻界空想の活動が大きくなるか風化していくかさえ、私にも未だわかりません。
いまは「楽しい」と感じているばかりです。
私が想っている、人生のうちで一番意識するべきことは『後悔』を残さないことです。
とある有名なアニメ作品では、住む家はなくて寝たきりの老人が、主人公に「最後にその酒を一口くれ。」と言い、ぐびっと飲んだ後に「ほな、さいなら。」と言って永遠の眠りにつくシーンがあります。私はそのシーンが大好きです。
最終的に自らの人生を振り返った時に「良い人生だった。」「やり残したことは無い。」とそう思えることが、生涯を通しての幸せではないかと考えています。
人生におけるあらゆる失敗や悲しい出来事は……、一概に一括りにすることは絶対に出来ませんが、少なくとも成長に繋がる失敗は「最後に幸せだったと感じる為にあるのではないか」と、表裏一体の物事から感じ取っています。
私は一度、幼少の頃に川で溺れて命を失いかけたことがあります。骨折や脚に縫い傷を負うような大怪我も経験しています。でも救われたからこそ、完治したからこそ、いまあるこの状態に感謝しています。
少々大袈裟に話を広げてしまいましたが、つまりは”やらないよりやった方が絶対に良い”と感じたからこそ、幻界空想という活動を始める気持ちに至ったのです。
私の中には常に多くの登場人物たちが、私の空想の世界で暮らしています。
私の空想はイラストからもわかるように主にファンタジーであり、まさに幻想や空想に魅入られている人間です。
その世界はひとつではなく無数にあり、ある日突然、その世界の存在に気が付くこともあります。
人間に与えられた一日の生活時間は全人類等しく24時間です。そして人生は誰にとっても有限であり、やれることというのはある程度、時間的に限られていると言っても過言ではありません。
私はnote上では、現在生業にしているお仕事の公表を行う予定は今後もありませんが、いま携わっているクリエティブ関連のお仕事が大好きです。
ですが人生を送っていると、お仕事以外にも好奇心を抱かせたり興味をそそる物事が多過ぎて、一人の腕には抱えきれないほどに”やりたいこと”が溢れてしまって、それがこぼれ落ちているようなそんな状況です。
そして、絵もそのひとつです。
描きたいものはたくさんあって、表現したい世界もたくさんある。けれど物事には優先度を付けて、限られた時間の中でひとつひとつ処理して、片付けて、達成していく必要がどうしても出てきます。欲を言えば二兎どころか、五兎も六兎も追いたい。
そんな中、AIイラスト生成との出会いは自分の描く絵とは違うけれど、自分自身で描くよりも遥かに速いスピードで”表現”を行ってくれる為、自分がイラストを描くことで現出される個性は"求める雰囲気"というかたちでしか、プロンプトを通じてAIに伝えることが出来ないわけですが、そのイラストに満足行くことが出来れば、それは人生を通してより多くの表現を行っていけると言い換えることも出来るでしょう。
絵を描くことと表現をすること、どちらを優先しているかによっても異なってきますが、”表現の手段”を求めている人にとっては、とても興味深い内容のものだと思います。
⚫︎表現の進化と理想
幻界空想の活動では、イラストをAI生成で表現してもらい、世界観や背景設定はすべて私自身が行うというバランスにしています。
またキャラクターの初期デザインはラフで自分の手で描き、それを元にプロンプトを構成する流れです。
私は自分の空想の世界に対して、強いこだわりがあります。
もしAIによって生成したイラストが、私の空想世界を表現していない、”こういうことでは無い”と感じたのであれば、いまここでこうして記事を書いてはいなかったでしょう。
つまりこの状況は(あくまで私に関してということですが)、AIによって生成されたイラストと表現したい内容が「上手く手を取り合った」かたちとなったのです。
心をぎゅうと締め付けられる、あの興奮を抱かせてくれるものでした。
AIイラスト生成については賛否両論ある意見を耳にします。
少しだけこのあたりのお話もしようと思うのですが、私はとあるジャンルのクリエイターの方、そしてクリエイティブ魂をお持ちの方と接する機会が非常に多くあります。
この記事内でもいくつかお話のテーマにもさせて頂きましが、”表現”とは本来は金銭的な事情などを抜きにして考えれば、心や頭の中に浮かぶ純粋な空想の具体化に過ぎず、相手に感動を与えたり、考えや知見の幅を広げる為の刺激であるのです。
しかし古くから表現は金銭的な事情が絡む「ビジネス」としての成り立ちがあって、何より自分の表現によってお金をいただいて生きると言うのはとても尊いことでもあります。
しかしここまで考えた上で、私が決して誤解しないようにしているのは”お金の為に表現があるのでは無く”、”表現によるお金がある”ということです。
少々ややこしいですが、こうした物事の考え方の順序はとても大切です。
AIイラストの生成技術の発達はイラスト業界のみならず、多くの方にとって激震が走りました。
AIが人の仕事を代替するというのは、これまで映画や小説、アニメでも散々語れてきたことであり、AIの技術革新は未来として想像されていたものに現実味を与えるに十分な、本当に凄まじいものを感じます。
私はいま、自分の手でタイピングをしてこの文章を書いています。しかしnoteや文章を扱うサイトの一部ではAIによる文章生成の実験がすでに始まっています。GoogleではAIによる検索機能も仕様が整えられようという時代です。
AIがまだしばらく問題視され続けるのは、「元々、人が表現していたものをAIが代替する件について」という部分です。
どこまでAIに任せるべきなのか、そもそもAIに表現などを代替させるべきなのか、そして人の表現を元にAIがあらゆる技術をディープラーニングし、そこから生成されたものについての著作権は、今後どのように扱われるようになっていくのか、変わっていくのか……、こうしたところも、今後深く考えられていくことでしょう。
あらゆる可能性を危惧している各所では、AIによって生成された作品は、自己の表現として認めることは難しいとしている場合もありますね。
”お金と同じようにAIも使い方次第で見方が変わる”、というように捉える方が、色々と物事を考え易いかもしれません。
私もクリエイターの端くれなので、自身のクリエイティブ活動がAIに取って代わられたことを考えれば、一番最初に思うのは”表現の発信機会が減ってしまう”ということでしょう。イラストに限らず、AIによってある程度代替が可能になる表現を生業にしていた場合、仕事量や生計に直結する問題も懸念として生まれます。もちろんネガティブな観点のみではなく、仕事の効率化やその向上に繋がるケースもあるので、本当に複雑で難しい問題であることは否めません。
こうした点もすべて含めて、AIについての賛否両論を生んでいる結果に繋がっているようです。
言うまでもなく、今後ともAI事情はどんどん発展していきます。そしてあらゆる問題も整備されていくことでしょう。
ルールの定まっていなかった物事に取り決めをするのは大変なことですし、決して発展や革新的なものを良いことばかりに使う人間だけではありません。無秩序を産まない為にも、ルールやモラルに関しては利用する自分達個人も考えていなかければいけない部分もあるでしょう。
表現においての一番の理想は”人間による表現とAI技術革新との融合”です。
世の中にはイラスト関係で「2D VS 3D」という対立を描いた作品もありますが、その中でも最終的に描かれているのは「手を取り合って上手くやっていく。」というものです。
その作品はアナログ or デジタルというのがテーマですが、私はこの考えやお話はAI関連にも通ずるものだと思っています。
「互いの良いところ活かして次へ繋げていく」、まさに今後の未来の発展を願った新しい進化の形だと思います。
AI生成によるイラストは未だ手を描くのが苦手です。今後さらに精巧になっていくのは間違いないと思いますが、手の表現以外についても、AIでも人間でも得意不得意やメリットデメリットはやはりどこかに生じるものだと思うので、改めて「上手く手を取り合うことの大切さ」を感じる瞬間でもあります。
賛否両論の議論に少しだけフォーカスしてお話をしていますが、これはAIイラスト生成事情におけるほんの一部の背景であると思いますし、私はこうしたことに視野を広げた上でAIイラスト生成と共に 幻界空想 を出発させました。
私がAIイラスト生成の肯定派であることはすでにお伝えしていますが、何より”受け入れてみなければわからないことも多くある”という思考が根本的な部分にあります。
どのようなことでも行き過ぎた規制や否定、拒絶は発展の幅を狭め、それは成長の機会を失わせてしまうことに繋がります。
もちろんすべてを委ねてしまうのも間違いであると思いますし、何より大切なのは「バランス」を取ること。これは口で言うよりも遥かにとても難しいことですが、やはり「手を取り合って上手くやっていく」ことにお話が戻ってくると思うのです。
自動化が進み受動的コンテンツ時代が到来している現代、「考える力の衰え」が懸念されていますが、こうしたクリエイティブ界隈に走る衝撃から、改めて考えさせられる『表現とは』 という議論に、私を含む多くの方が立ち返ることが出来るのは、ある意味でとても有意義なことだと思います。
最後に
幻界空想は、私の空想をAIイラストに生成し、その空想世界を多くの方と共有して楽しむ、そんな形を目指して出発させたものです。
私がnoteを通じて公開するのは、空想から生まれた登場人物たちの世界観や背景、プロフィール、そして時には人物達の人生である物語です。
キャラクターたちの"命"がみなさんの空想に限界まで生き続けましたら、本当に嬉しい限りでございます。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうござます。
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