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わかりやすい文章を書くために大切なこと
わかりやすい文章を書くために大切だと考えているのは、「独白を書かない」ということだ。今でもちゃんと実践できているのかは怪しい時があるが、意識だけは常に持つようにしている。
かなり前のことだが、職場でこんなことがあった。とても優秀な女性の同僚がおり、彼女は簡潔にわかりやすい文章を書ける人だった。ある時彼女は、他部署の人が書いた文章の内容を確認することになった。文章の「てにおは」を直すことが目的ではなく、彼女の専門的知見からテキストの内容をレビューしてほしい、という依頼だった。私は彼女と席が近かったので(当時はフリーアドレスは一般的ではなく、固定席だった。ちなみに固定電話もまだあった)仕事の合間にたまに言葉を交わしており、そんな依頼を受けているのだということだけをその時たまたま聞いていた。
そして数日後に件の文章がメールで彼女宛に送られてきたのだが、それを一目見た彼女は「これは感想文。内容をレビューする以前の問題だ」と言い放ち、ワードファイルにカタカタと手早く修正履歴を入れて送り返した。私も内容を少し見たが、まるでひとりごとのように事実と感想が入り混じった拙い文章だった。彼女は、その内容だけではなく形式面にも的確にコメントを入れて突き返していた。
その時私は、これは面白いなと感じた。彼女の直截的な物言いもそうだが、「感想文」というものが強く否定的に捉えられたことに対して、面白さを感じた。
自分が初めてまともに文章を書いたのは、多分小学校で課題図書を読んで「読書感想文」なるものを書くという宿題を課され、嫌々原稿用紙に鉛筆で何かしらを書いた時だ。読みたくもない本を読み、自分の「感想」を400字詰めの原稿用紙に落としていく。正直なことを言えば「つまらない」以外の何もないのだが、それでは宿題の要件をクリアしないので、覚えている部分を取り上げてそれについて感じたことを取りとめもなく書いて提出する。まとまりのある文章を書ける子は、先生に褒められて皆の前で発表する機会を作ってもらったり、時には表彰されたりする。
その時は、「感想文」というものは良いもの、書くべきものとして提示されていた。本の内容を抜粋したりするのではだめで、何についてどう感じたかを言語化して文章にすることが求められていた。
しかし、職場では「感想文」は否定された。感想文なんて送りつけてこないでくれ、という感じである。読んで理解できるようにわかりやすく書いてくれ、という打ち返しの言葉とセットで、修正履歴付きの感想文はすぐに送り返された。
何が違ったのだろうか。小学生の時の読書感想文は、自分の考えを言語に対応させることだけが求められていた。自分の想いや感情を、それまでは泣くことや暴れることで表現していたものを、少しでも言葉で表現できるようになることは小学生にとっては非常に大きな一歩である。だから、感想文は肯定的に受け止められた。
しかし例の職場では、自分の考えを言語に対応させることは当たり前のこととして、その上で自分以外の誰が読んでもある程度理解できる文章を書くことが求められていた。感想文は主観性の強い文章である。主観性が強いと、書いた人の主観にたまたま「乗れる人」は良く理解できるが、「乗れない人」はその文章を理解することが難しくなる。日記ならよいが、職場で様々な主観を持った人が読むことが想定される文章においては、感想文は否定的に受け止められる。
言語は他社とコミュニケーションするツールであるから、どんなに主観性が強くても誰にも全く伝わらないということはあまりない。かなり支離滅裂な文章でも、何となく言いたいことがわかる部分があったりする。一方で、書けば何でも他人に伝わるわけではない。他人に伝えるためには、主観性を削ぎ落し、多くの人が「乗れる」抽象的な主観を想定して書かないといけない。
主観性が強い文章は感想文であり、自分が自分に向けて書いている「独白文」であるとも言える。こうした「閉じた文章」は、乗れる人が少ないが故に、わかりにくい文章とされてしまう。
わかりやすい文章は反対に、「開かれた文章」である。読んだ人の多くが、自分に向けて書かれていると感じることができるということだ。しかし文章は1つだから、それぞれの読み手に固有の主観に訴えかけるような芸当はできない。自分「にだけ」向けられている文章ではないが、自分「にも」向けられている文章ではある。多くの人がそう感じられるような文章が、わかりやすい文章であると言える。
自分なりにそう整理できるようになってから、自分以外の人が読むことを想定している文章には「独白を書かない」ことを目指して書いている。一般的な意味でのわかりやすい文章とは異なるかもしれないが、。自分「にだけ」向けられている文章ではないが、自分「にも」向けられている文章を感じられるものを書くというバランスを意識することが、読める文章を書く上で一番大切だと考えている。