徹底的に型を身につけることが、その後の自由とユニークネスを担保する
型を身につけることは「自分を型にはめてしまう」というネガティブな見方と、「型という基本があるからこそ自由に考えたり、動いたりできるようになる」というポジティブな見方の双方がある。このどちらの見方も正しく、両立する。
私の考えでは、この2つの主張は異なる時間軸を扱っている。型を学んでいる時には「自分を型にはめてしまう」という主張が優勢になる。型を学ぶとは「型に自分をはめにいく」行為だ。自由に振舞う余地が少なくなることは当然である。
一方で、ある程度の水準で型を身につけることができると、自由に振舞う余地が増えてくる。型が身体化され、自然と型に沿って考えたり動いたりすることができるようになる。この状態になると、型という汎用性の高い基本OSを持っていることで、型を身につける前よりも多くのパターンの思考や行動ができるようになり、型の上に自分なりのスタイルを築くことができるようになるのだ。
非常に独創的な仕事をしている人たちは、やはり若い時に徹底的に型を身につけている。世界的に著名な言語学者・イスラーム学者である井筒俊彦氏もその一人だ。対談した司馬遼太郎が「20人ぐらいの天才らが1人になっている」とその異能ぶりを評するほどで、30以上の言語を操る語学の天才性を活かし、文字通り古今東西のあらゆる哲学・思想を横断的に比較考証するとんでもないスケールで仕事をした人物である。
そんな井筒氏が大学時代に師事したのは、これまた天才中の天才と言われる西脇順三郎氏だ。日本で生まれ育ったにもかかわらず、「英詩」でノーベル文学賞候補にノミネートされたほどの人物で、西脇氏も語学の天才と誉れ高かった。
そんな西脇氏、自身で英詩を発表しているほどの人だから、学生は西脇氏の授業で「文学論」が聞けるものと期待しているにもかかわらず、徹底的に英語の語学トレーニングに振った授業を行っていたというエピソードが以前紹介した「英語達人列伝」に記載されている。外国語で文学を理解することのハードルは高い。語学力が低ければそもそも文学云々以前の問題である、という認識故の授業だったようだ。
西脇氏のもとで、井筒氏は徹底的に英語を仕込まれた。語学の天才であった井筒氏が「厳格そのもの」と表現するトレーニングは、凡人には想像を絶する水準のものだったであろう。
井筒氏は、他の言語もとにかく徹底的に学んでいる。タタール人のムーサ先生という大学者が日本に滞在している約2年間、朝早くから明け方近くに就寝するまでアラビア語を読み書きし・話し、さらには教えるというアラビア語漬けの生活を送っており、そんな中で「アラビア語入門」という本を書き上げた。
型の重要性は、学問だけではなく他の領域にも及んでいる。ミシュランガイドで3つ星を取り続けているトップシェフである米田肇氏は、日本とフランスでの修行時代に徹底的に料理で手を動かす型を身につけた。型だけでは定型的な料理を作れる人に終わってしまうが、創造的な料理を生み出すことができるのは「型のその先」に到達できる人だけである。
型を「自分を閉じ込めてしまうもの」とだけ受け取ってしまうと、枷であり続けてしまう。型を考える時には、そこに適切な時間軸の概念を持ち込み、「将来的に自分をもっと自由にしてくれる土台」だと捉えることが重要だ。