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俺がGenjiだ! 第IV章「ハスキーボイス」

第IV章「ハスキーボイス」

1982年夏、あるレコーディングでの話。

その当時僕はスタジオ・ミュージシャンとしても多忙な時期でもあった。 スタジオ仕事は、インペグ(スタジオなどの音楽仕事を斡旋する業者)からの依頼か、アレンジャ ーが直接依頼するかのどちらかで、アレンジャーからの方は直接名指しで依頼されるので、知り合いからの仕事という事で安心して出来る一方、その人との信頼関係を壊さない様に、また、期待されている以上のプレイで応えなければ、というプレッシャーも大きかった。

ある日、スタジオ仕事のオファーがあった。アレンジャーの星勝(ほしかつ)さんの仕事だという。

星勝さんはサイケデリック・ロックの先駆けであったバンド「ザ・モップス」でギターを担当して いたが、バンド解散後はアレンジャーとして活躍されていた。 星さんとはご一緒させていただく機会が多く、安全地帯、井上陽水、高中正義など多くのアーテ ィストの作品に参加させてもらっていた。

その日の仕事は、ある男性アーティストのシングル楽曲用のレコーディングという事。 スタジオ仕事の場合、僕の様な管楽器奏者は、たまにははリズム・セクションと同時にレコーディ ングすることもあったが、殆どがホーン・セクションかソロのどちらかの仕事だった。ホーン・セ クションの場合は、自分一人だけではなく他の管楽器の人と一緒に演奏する。 今回はアルト・サックスだけ持ってくる様に言われていたので、おそらくセクションの仕事だろうと思っていた。しかし、スタジオに行ってみると一人分のマイクしか置かれていなかったので、ソ ロの仕事だとわかった。ソロの仕事は自分一人だけなので気楽なのだが、その分、責任が自分一人にかかってくる。

楽器をスタジオに置いてコントロール・ルームの方に挨拶をしに行くと、星さんが居た。

「おはようございます。今日はどんな感じですか」「今日はこちらUさんのシングル用楽曲のソロです」と言って、Uさんを紹介された。軽く挨拶をしていると、星さんが、 「まだ全部は完成していないけれど、ひとまず譜面を見ながらフルで聴いてもらえますか、かなり良い曲ですよ」
と言って譜面を渡され、仮歌が入った曲をフルで聴いた。

一般的な歌のレコーディングだと、最初にリズムトラックを録音して、そこに仮歌を入れて、リズ ム以外のダビング(音を重ねていくこと)をして行く。今回の仕事もそのダビングの一環で、 この時点では正式な完成された歌は未だ入っていなかった。

曲を聴いた後、星さんと軽く打ち合わせをした。
「どうしましょうか」僕が尋ねると、星さんが、「ワンコーラス目に関しては、サックスは出てこないで、1番の後の間奏から思いっきりドラマチックに出てくるのが良いと思うんだよね。そして、エンディングはサビの繰り返しでフェイドアウ トして行くので、歌のバックでエモーショナルなオブリかな」ソロの場合だと、アレンジャーとのコミュニケーションが大事で、どういうものを要求されるかによって自分の演奏の仕方も変わってくる。だから、直接話をしてアレンジャーが求めていることを知ることが重要なのだ。

 歌は仮歌だったけれど、1回聴いただけで感動するほど素晴らしかった。

そこで、そこにいたUさんに声をかけた。「凄く良い曲で、歌が素晴らしいですね、こんな良い曲でソロができるなんて光栄です」と言うと、「僕も沢井さんにやってもらえるだけで光栄ですわ」と返ってきた。
関西弁だ。 関西出身だとは知っていたが、未だに関西弁とは自分も関西出身だったので懐かしかった。 それに、話し声が渋い。良い声だ。 Uさんは関西出身のソウル・シンガーでハスキーボイスだということは知っていたが、歌声も渋い が、話し声はもっと痺れる。声だけでその人の人格が伝わってくる様だ。

「沢井さん、たぶん知らはれへんと思いますけど、昔僕が大学生の頃一度ニアミスしてるんですよ」
「えーーーっ、本当に!いつ?どこで?」「たぶん同じ学年やと思うんですけど、3年生の時にヤマハのコンテストに出はったでしょ、その時 僕も出てたんですよ」
「出たのは覚えているけれど、他のバンドでボーカリストとか出ていたかなあ?」 「その時僕は楽器で出てたんですよ、テナーサックスで」
「いや、覚えてないなあ」「そらそうでしょ、僕そんなに上手くなかったからからね、沢井さんは上手でしたよ」「そ、そ、そうでしたか。そう言われたら、今日のソロは頑張ってやらないとね」

そんなやりとりがあって、レコーディングが始まった。
最初に星さんから「譜面に色々書いてあるけれど、決まりフレーズ以外は自由にやってください。と言うか、決まりフレーズも好きにやってもらっても良いので、できるだけエモーショナルに」という注文があった。

間奏までサックスは出てこない。
間奏で思いっきりエモーショナルなソロをやって、 後奏では歌とうまく絡んで終わっていくように、そして、 絶対に作為的なのは避けよう、感情を素直に表現できる様な演奏を心がけよう、と思っていた。

2、3回演奏する部分を確かめ、本番テイクを録る事になった。 通常ダビングの場合、演奏する4〜8小節前くらいからテープを流してもらって、指定された部分を録音 するのが一般的だったが、その時はソロの部分だけ流してもらうのではなく、音楽的な流れを作るために、曲の一番最初からテープを回してもらう様にお願いした。

その歌は大阪での恋人との別れがテーマだった。 男性のUさんが歌っているけれど、歌詞は女性が主人公だ。

歌が流れてくる、僕が大阪にいた頃のことが甦ってくる。 

自分の思い出とその歌がオーバーラップしてくる。 

そうすると、自然と涙が出てきた。

そのまま、その切ない感情を引きずりながらソロの部分を思いっきり吹いた。 感動して放心状態になっている自分がそこに居た。終わって、しばらく静寂があったあと、ガラスの向こうから拍手が聞こえてきた。

「沢井さん良かったですよ、こっちに来て聴いてください」 本人からも星さんからも弾んだ声が返ってくる。

コントロール・ルームの方に戻って今録音したプレイを聴いてみる。 歌と歌詞とソロとが絶妙のバランスだ。と言うよりも、それぞれが相乗効果を上げている。大阪の夜景が見える場所での出来事、その情景が見える様だった。 

その後、後半の部分を録音して無事そのレコーディングは終了した。 1時間ほどの録音だった。 しかし、この1時間は凄く濃密で、自分の人生の中でも忘れられない時間になった。

「サックスが入って一段と曲のイメージが拡がりました。ありがとうございます。発売を楽しみにしていてください」ディレクターからの言葉だった。

「この曲、本当に凄く良い曲ですね。売れるといいですね」 僕はそうディレクターに声をかけてスタジオを去った。

そして、そのシングルはその後10月にリリースされた。しかし、ヒット・チャートにはなかなか現れてこなかった。

あんなに良い曲なのに、世の中っていうのは下世話で、本当に良い曲というのはなかなか支持され ないものなんだなあ、と思っていると。 暮れ頃になって大阪の有線放送チャートで話題になっているらしい、という話を聞く様になった。 島田紳助ら大阪の有志が集まってその曲の後援会まで結成されたという。 その波はじわじわと東京にも翌年の春前にやってきた。

とうとう3月になって、ようやくベストテンに入ってきた。 発売されてから半年近くも経っていた。 その当時では、こんなに時間がかかってチャートインしてくる曲は珍しかった。 音楽業界でも話題になったことは言うまでもない。今でも日本音楽界の歴史に残る伝説の曲として語り継がれている。 

Uさんにとっては、生涯の代表曲になった。 



その曲悲しい色やね〜大阪ベイブルース

そしてハスキーボイスの上田正樹 

自分にとって、レコーディング仕事の中でも思い出深い1曲。
 

                             沢井原兒

Podcast番組「アーティストのミカタ」やっています。

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