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アルゲリッチのピアノと、一流を言語化するために三流を知ること。

さて、昨日、マルタ・アルゲリッチのピアノコンサートに行ってきました。

何年か前に「現代最高のピアニストって誰なんだろうか?」っていう興味と疑問が湧いたため、「ピアニストランキング」みたいなサイトとかをザッと見ていって評判の良いピアニストの演奏なんかをいくつかYouTubeで聞いてみました。

で、その中のこの動画の演奏が衝撃だったんですね。

音がすげえ。

言語化する為にあえて喩えとして出しますが、先日亡くなった某ピアニストの方、25年くらい前の昔、めっちゃテレビで騒がれていた頃にCDを買ってしばらく聞いていたことがあったんです。

ただ、何が良いんだか私にはサッパリわからなかった。こんだけみんなが良いって言ってるものの良さが全然わからんってことは、俺の耳が腐ってるんだろうか?ってことを思ったりもしましたが、それから25年経ってこのアルゲリッチって人の演奏を聞いて、明確に「音が違う」って思ったんですね。

うまく言語化は出来ないけど。


で、ライブに行ってきました。

音が違うぜw

正直ね、私は「クラッシックは嫌いではなく、どちらかと言うと好き」くらいのもので、有名どころの曲がまとめられたCDとかを聞いたりするくらいのレベルで、ショパンやモーツァルトは普通に好きですが、曲名とかも大してわからんし、それ以外の作曲家だったりも全然詳しくないし、まして「この人の演奏はいいけど、あの人ははちょっと癖があるからね・・・」みたいみ演奏家による違うみたいなことを言える知識も体験も皆無に近い。

なので、昨日のライブでアルゲリッチさん他が演奏した曲は何一つ知らない初見(初聴)なので、良いんだか悪いんだかの基準がないから何も言えないのですw

で、一夜明けた今日の朝、演奏された曲目を適当にYouTubeで検索してみて、色んな人が演奏している動画を流してみたら、まあ、全っっっっ然違う。

嘘だろ!ってくらい違います。

昨日はわからなかったけど、今日、他の(下手な)人の演奏を聞いてわかりました。

いや、下手って言ったってちゃんとした会場で演奏されたものが動画に挙がっているレベルの人なので、素人の「〇〇を歌ってみた」系の人たちとは全然違うわけです。皆、それでカネを取れるレベルの人。

でも違う。全然違う。

アルゲリッチのピアノは、小川の水がどこまで軽く鮮やかに流れ続けてその先の小さな段差でチョロチョロと水飛沫を飛ばしながら跳ねるように、そしてその水しぶきが流れて飛んで風になってその風が森の木々を揺らし、鳥の羽をフワリと持ち上げてさらに空の上の上まで流れていって、鮮やかな色のついた透明の風になって踊り続けているかのような音。

全然違うわ。


でね、思ったんですわ。

「一流のものに触れるのは大事」って言いますが、もちろんそれは絶対的に大事なんだけど、同時に玉石混交の混濁した世界に触れることも大事だ。

色んなものを体験し、経験し、知っているからこそ、「これは一流、これは二流、これは三流」ってことがわかるわけです。

最初に「うまく言語化出来ない」って書きましたが、言語化するってことはね、「対象と対象を切り分けていく」ということですね。

私が生まれてからこの方、アルゲリッチのピアノしか聞いたことがなければ、一流もクソも何もあったもんじゃありません。だって、それしか知らないんだから。

私はこの前のサッカーW杯のカタール大会で、日本がドイツ・スペインを撃破したことに泣きましたが、なぜかと言えば、それがどれくらい大変で凄いありえない成果であるかがわかるからです。子供の頃からサッカーをやってきて、それなりにサッカーの知識もあるから。

三笘の1ミリと言われたあのクロスに至る諦めない姿勢と走りきったプレーがいかに素晴らしいものであるのか良くわかるし、浅野がノイアー相手にニアにシュートをぶち込んだのが、どれくらいありえないシュートであったかがよく分かる。あれは、FWが100人いても95人はファーに撃ちますよ。

と、話がズレましたが、言語化が対象を切り分けるものだとするならば、多くの対象・事象を知る必要があります。


もう1個たとえを出しますと、雨って水ですよね。

雨を手のひらにためたものは水だし、川に行ってすくったものも水だし、海で手ですくったものも水です。

でも、雨のことを水という人はいません。子供なら言うかな。子供が雨を水というのは雨という言葉・概念を知らないから。

そして、大人ならばその雨のことを、大雨、にわか雨、小雨、ザンザン雨、春雨、夕立とかって使い分けるかもしれない。全部、水です。手にためた水を「雨」という大人はいませんね。

それは多くの対象・事象を知識体験として知った上で「雨」というものを切り分けているわけです。

水=雨=小雨

という切り分けが多くできる程、言語化という区分けは具体的になって行く。

というわけで、話がだいぶ小難しくなった気がしますが、一流の一流たる凄さは「一流じゃないもの・そうじゃないもの」も知っていないとわかりづらいし、それを言語化することも出来ないってことを再確認したナイスな体験でした。

いやあ、49才になる年齢でも感動できることはあるし、自分の無知を思い知らされるし、世界にまだまだある「美しいもの」を知るチャンスもあふれているってことですね。

今度は俺が知ってるショパンとかの有名どころの曲をやってください!

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