自分を傷つける生き方と共存する仲間を探して

私のこと

17歳のとき、私は死のうと思った。
今となっては自分でも分からない。
こんなに言葉にしていても。

私は、中学~高校にかけて、自傷行為を繰り返していた。初めてリストカットをしたのは中学生の時。それから断続的に、手首や足を傷つけて生きてきた。ピークは高校生のとき。そして卒業後はかなり落ち着いた。

「死にたい」と思ったのはいつだっただろうか。これも中学生の頃には自覚していたのではないだろうか。そんなこと、考えちゃいけないって思った。でも、一度その思いに気づいたら、もう逃れられなかった。

毎日、学校に行くのがつらかった。朝家を出て、憂鬱な気持ちで学校に向かった。だけど、そんなこと、言えなかった。私は学校で、「いい子」だった。人と一緒にいれば、小学生時代以来の明るい私がそこにはいる。繕うのが上手かった。誰ひとりとして、気づくことなどなかった。

誰にも言えずに、大人になった。このまま、墓場までもっていくんだと思っていた。ところが今私は、この話を人に語っている。ここで書いてもいる。当時の私は、今の私を見たらどう思うのだろうか・・・・・・。

「人が死んだら記憶はなくなる。秘密もなかったことになる。」
私は秘密を、なかったことにはできなかった。

仲間が欲しい

高校生の約1割が、自傷行為の経験があるという。しかし一方で、学校が把握しているのは1%にも満たない。つまり、私のように、誰にも言わず、ひとりで抱え込んでいる子がたくさんいるということ。

また、一言に「自傷行為」と言っても、その程度は様々である。何針も縫うようなリストカットをする人もいれば、皮膚の表面を薄く切る人もいる。精神疾患を抱えながらする人もいれば、そうでない人もいる。

本を読めば、自傷行為について様々な言説があふれている。今日では、それが「孤独な対処」であることも理解されつつあるし、「生きるため」にしているのだと、分かってくれる人がたくさんいる。そんな本を、むさぼるように読んだ。自助会なんかの語れる場所も増えている。行ってみれば、共感できることはたくさんあった。

でも、そこで描かれるのは、そこにいるのは、あえて言うのなら「重い」人たちで、「当事者」と名乗れる人たちだった。比べたいわけじゃないし、その人たちがどれほど苦しい思いをしているのかを軽んじるつもりもない。だけど、自分がそこにいる資格はあるのだろうか、と思えてくる。

おそらく、大人にばれることなく、ひとりで抱え込んでいる子どもの場合、一つ一つの傷はそれほど深くない。そのまま誰にも知られずに大人になった人も少なくないと思う。それなりに適応して、今は普通に生活できている人もたくさんいるのだろう。私がそうであったように。

でも、それをなかったことにするのは違うような気がする。語れるようになった今であっても、苦しいとき、切りたいときってなくならない。

語れるようになった今、むしろ私は、仲間が欲しい。隠してきた人、「大したことない」からと言えずにいた人、表向きは適応できた人。私なんかが声を上げてはいけないと思ってきた。でもそれだと、仲間は見つからない。だって、一見したら、今はそんなに困ってない人が多いから。

ここでなら、匿名でなら、仲間が見つからないかな~と思いながら。



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