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心化粧25 —— 万民無用の時代へ
おながわに向かう電車が来るまで、私はとぼとぼと石巻の街を歩いている。
時計を見ると、まだ9時33分には時間がある。
この石畳を踏みしめながら、ふと考えた。
「今、私が踏んでいるこの地面は、本当に必要なのだろうか?」
もし、誰にも踏みしめられることのない地面があったとしたら、それは無用なのか?
いや、そんなはずはない。
地面は、誰に踏まれようが、踏まれまいが、そこにあるべきものとして存在している。
この世界に「必要のない地面」など、存在しないのだ。
では、人はどうだろうか?
今、我々は「無用」となる危機に直面している。
すべての人間が、不要とされる未来がすぐそこまで来ている。
「万民無用」—— それは、すべての人間が必要とされなくなる時代。
だが、もし「必要とされない人間」がいることによって、
「必要とされること」が生じるのだとしたら?
それは、無用の用。
つまり、無用であること自体が、何かの役割を果たし得るのではないか?
私はそう確信する。
福音の時代が来る。
間違いなく、それはもう目前に迫っている。
有能な者が無能となる日が来る。
無能と断じられた者が、無能と断じていた者を見下ろす日が来る。
その時、人々の精神は、その「無用」という現実に耐えられるのだろうか?
だからこそ、私は説き続ける。
「無用の用」という相次の思想を。
今こそ、それを実践すべき時が来たのだ。
孔子、孟子、荀子、韓非子の時代は終わった。
これからは荘子の時代だ。
老荘思想が、ついにこの世界の支配宗教となる時が来たのだ。
無用の中の必要、必要の中の無用
街を歩いていると、ふと気づく。
「特徴のないものの中に、何か特徴を見出してしまう瞬間がある。」
例えば、石巻の街には、無数の仮面ライダーの像がある。
あれは無用だろうか?
いや、無用だ。
だが、無用だからこそ、この街の個性を形成している。
特徴のない街に特徴を与えているのは、まさに「無用」なものなのだ。
一方で、どこの街にもあるカラオケ屋。
ここにもビッグエコーがある。
だが、これは本当に必要なのだろうか?
今、人がいないこの時間に、大声で独り言を話している私は思う。
「このカラオケ屋こそ、無用ではないか?」
無能とされた者たちが革命を起こす日
今朝、私はYouTubeでニュースを見た。
「ある県の職員2名が、能力不足を理由に分限免職された」との報道。
公務員が、能力不足で解雇される。
それは、つまるところ、本当の無能であることを意味するのではないか?
だが、それは彼らだけの話ではない。
彼らは、1日でできる仕事を数ヶ月かけて終えたという理由でクビになったらしい。
だが、我々もまた、同じ運命をたどるのではないか?
間もなく来るのだ。
「能力不足」と言われることなく生きていた者たちが、
「能力不足」と言われる日が。
すべての仕事が機械に置き換わったその時、
あなたは「能力不足」と言われる側に立たされる。
もはや人間は何もできなくなる。
その時、人間は、かつて自らが「無能」と断じた者たちと何が違うのか?
間違いなく、福音の時代が到来する。
それは、すべての人間が平等に「無用」となる時代だ。
万民無用の時代。
そして、それこそが新たな革命の幕開けなのだ。
福音を告げる汽車が来た
9時33分。
汽車がやってくる。
私はこの汽車に乗ることで、
新たな街へと向かうことになる。
この汽車が運ぶのは、私の身体だけではない。
それは、私の思考を、私の思想を、新たな地へと運んでいく。
私は改めて見なければならない。
この先に広がる、新たな街を。
この先に待ち受ける、新たな時代を。
私は、ここから第一歩を踏み出すのだ。