読む書く描く、想像と創造
想像の始まり
僕が幼稚園の頃だったのではないだろうか、大好きだった親戚のおばあさんが亡くなった。死という概念に触れたのはそれが初めてだったが、物事を深く考える父に死とは何かと尋ねても、納得のいく答えは返ってこなかった。僕が幼すぎて自分の考えを伝えても通じないと思ったのかもしれない。
当時の僕は、市電に40分ほど揺られて幼稚園に通っていた。通り過ぎる光景を見ながら、僕は死んだら人間はどうなるのか、人間は何のために生きているのかを考え続けた。
父が僕に買ってくれた数百冊あまりの本の中には、少年少女文学全集、聖書物語、仏教の起源、百科事典、外国小説の翻訳などがあり、疑問を持ちながら毎日のように何度も何度も読み漁ったが、答えはどこにもなかったが、何百回となく何かを求めて読み続けていた。
SFとの出会い
その中に二冊ほどあったサイエンスフィクションに行き着いて、僕の想像力は吸い込まれていった。他のどの本にもない荒唐無稽なアイデアに、人間が想像しても行き着くことができない答えのようなもの、むしろ想像しても行き着くことができないからこその答え、宇宙人、他の星の全く違う生物や文明、それらとの出会いが我々の日常にどのようなインパクトを持つかなどを活字にしていた。
以来、幼稚園の隣にあった小学校に6年間通う間、自分自身で生、死、人間の存在する理由、宇宙、僕が生きている間に届くことがない星々に関する自分自身の想像の世界を創り上げようとし続けた。
スペースオペラ
中学校に入ると、昼食代をもらうようになり、ほとんどその昼食を食べることなしに、帰りの駅にあった本屋で2冊程度のサイエンスフィクションを買うようになった。太古より生きる種族同士の戦いを描くE. E. DOC Smithのレンズマンシリーズ。ある日火星や金星に連れて行かれて、そこでヒーローになるエドガー・ライス・バローズの火星シリーズ、金星シリーズ、などの巨大な世界観に取り込まれていった。太古の王国で一人の強大な力を持つ戦士が王になるまでの過程をシリーズにした英雄コナンシリーズなど、これらの大作が全て1930年代に書かれたことはずっと後まで知らなかった。
ファンタジー
小学校に転校してきて、卒業するまで学業が全て一位だった友人に勧められたホビット物語と、アメリカに出る時に英文科に合格した幼馴染に渡された巨大な The Lord of the Rings の全集が一冊になった本が同じ作者の同じ世界を描いたものであることを知ったのは、大学に行って辞書を片手に The Lord of the Rings を読み進めたときだった。
The Lord of the Rings の文章力はとにかく驚異的で、使われる語彙も表現も教科書よりはるかに豊かだった。トールキンがこれらを書いたのも1930年代だった。
アメリカの長い夏休みを過ごすために、日本で最初に読んだスペースオペラの数々を本屋で見つけてきて読んでみたが、僕の父母の世代である1930年代の語彙力は半端じゃなく、とにかく英語の勉強になった。
新しく出版されたSFの世界観は、はるかに限定されていたものが多かったが、1977年に出た Piers Anthony の Xanth Series (ザンス物語)の世界観は、言葉遊びが満載でとても面白かった。邦訳は読んだことがないが、あの言葉遊びを翻訳することなど考えられない。フロリダ在住の英国人で彼の作品の登場キャラはトールキンの影響を受けていた。
同時期に大学でも流行った、Advanced Dungeons and Dragons (D&D)が世に出て、大量にあったSFの世界がファンタジーの世界に置き換えられ始めた。
ラノベ
日本に戻ってみると、ラノベが盛んになっていて、その中の異世界もののほとんどがやはりトールキンに影響を受けたファンタジーが舞台になっていた。
翻訳に疲れた頭を空っぽにするときには、ラノベを読む習慣がついたのもこの頃か。もちろんドラゴンボールの世界観も素晴らしかった。
家中ラノベだらけになったが、ラノベは頭を空っぽにする道具だったから読み返すことも少なくもったいなかった。試しに小説家になろうを読んでみたら、ストーリーを最後まで読めないものが多かったが、それで十分だったのでそのまま今に至る。
創作
死と生を考え続けた幼稚園〜中学二年ぐらいの時期に自分自身で創り上げた世界観がある。このような読書習慣がベースになっているから、必然的にSFとファンタジーそして宗教感を展開した世界観になっていて、いずれはラノベにしたいと思い続けてはいるが、何せ空想していた期間が長すぎて僕の年齢では時間が取れない。
でも諦めていない。
タイトルにある「描く」はまた別のトピックにしよう。